悪夢のまま目覚めない

 あのあと二人仲良く地面に落ちた結果、フレイヤのドレスはいよいよ皺がひどくなり、汚れも目立ってさらにはセットしてもらった髪もぼさぼさになった。まあそれでもサボがさりげなく庇ってくれたので、大きな怪我をせずに済んだのは幸いである。
 しかし、落ちたときの衝撃がよほど大きかったのか、駆けつけたカロリーナが目玉をひん剥かんとする勢いで状況を説明しろというので渋々それに従うと、やはり怒りだして説教タイムに突入した。隣でサボがなんでおれまでって顔をしていたが、そもそもサボが勢い余ってこちらに突っかかってきたのだからむしろこっちがなんでと言いたい。
 そのあと予定通りというか、両親にも怒られた。今日のために仕立てたドレスが台無しだとか、せっかく綺麗にセットした髪がもったいないとか見た目の心配ばかり。母は何やら隣にいた客人のことをちらちら気にする素振りで落ち着きがなかった。どうやら彼らがアウトルック家の人々らしいが、フレイヤが驚いたのはサボがその家の長男だと説明されたことだ。
 思わず素っ頓狂な声を出してしまい慌てて口を押さえた。許嫁という存在は、自分が結婚するのは当分先のことだと思っていたせいでなんとなく年上の人だと想像していたから、まさか同い年の子だとは思わなかった。そしてサボ本人もまた、自分の結婚予定の相手がフレイヤだと知って目を見開いていた。つまりお互い何も知らずに話していたわけだが、なんだか不思議なめぐり合わせだと思った。
 両親たちはフレイヤもサボも服が汚れていることに、仲良くなったのだと体よく判断したようでこの場は収まり、今後のことはまた追々進めましょうということでお開きになった。

 それからというもの、フレイヤは稽古や勉強の合間にサボと手紙のやり取りをするようになる。
 内容は至って他愛ないことばかりで、今日起こった出来事や食べたもの、好きなことの話から将来の夢までいろいろ。そこには、初めて会ったとき語っていた"海"についても書かれていた。サボはこっそり自分の興味があるものに関する勉強もしているらしく、それを手紙に書いてくれていることもある。
 あるときはこんなやり取りをした。

 今日はわたしの好きなものを書くね。いまわたしがいちばん好きなのはお花なんだけど、この前水路の近くに新しい花が咲いていたの。絵を描くのはあんまり得意じゃないから伝わるかわからないけど、知ってる? 名前はヒヤシンス。色はこいピンクとか白、あい色(カロリーナからこい青のことをこう言うって聞いた)なんかがあって、とってもきれいなの。それに少し甘いにおいもするんだ。今度サボにも見せたいな。また遊んでほしい。

 ヒヤシンスう? なんだそれ、初めてきいた。ラッパみたいでおもしれェ形だけど、きれいだっていうのは伝わったよ。今度会ったら見せてくれ。
 おれは航海術の勉強をはじめた。海へ出る準備だ。今度フレイヤにも教えてやる。だからぜったい一緒に海へ出て、自由になろう!

 航海術なんてすごいね! わたしはこないだまで海のことは全然知らなかったけど、あれから図書館で本を読んでみたよ。むずかしくてほとんどのことはわからなかったけど、サボの言うとおりとても大きなモノなんだってことだけはわかった。

 やっぱりこの家はおかしい。あいつらは息子の<おれ>じゃなくて、アウトルックって家を大きくする<誰か>をのぞんでるんだ。この家におれは必要ない。



 サボからの手紙はこのときを境に届かなくなった。出そうと思っていた彼宛の手紙はたまる一方で、その間もフレイヤは変わらず貴族としての稽古事や礼儀作法で忙しい毎日を過ごした。けれど、ふとした瞬間に浮かぶのはサボのことで、どうしているのか気になる気持ちは次第に増していく。
 会いに行くことも一度は考えたのだが、サボの家の場所がわからないという致命的なことに気づいて断念した。両親に聞いても女が男の家に行くのははしたないなんて言うし、無闇に探すのは利口じゃない。高町でそんなことをすればすぐに噂になってしまうからだ。
 四歳のフレイヤは無力で何もできず、ただ時だけが虚しく過ぎていく。
 そうして、サボからの連絡が途絶えた数か月後。突然アウトルック家からサボが家出したという事実を聞かされた。ある日、唐突に家に帰ってこないまま数週間が過ぎているという。
 突然の話にフレイヤの頭の中は真っ白で、しばらく何も考えられなかった。考えたくなかったのかもしれない。だって、そんなのまるで――

 サボが、フレイヤを裏切ったみたい。