つかめもしない恋ばかり

 いまや<グランツ・カヴァナ>の常連客である青年ニコスは、オープン当初から通っている。そのときはまだ図書館はなくカフェのみで、客も少なかったことを覚えている。当時のメニューは一般的なカフェにあるコーヒーや紅茶といった飲み物に、デザートが少々。正直に言えばコーヒーの味は決して美味いと言えるほどではなく、まだインスタントのほうがマシだった。そうした味も時が経つとともに美味しくなっていくのは、最初から応援している身としては嬉しい限りだ。
 しかし、ニコスが足しげく通っている理由はただ単にこのカフェが好きというだけではない。
 いらっしゃいませ、という優しい響きを伴った明るい声が耳に届く。声の主の雰囲気はお洒落なこのカフェによく似合っていると、ニコスは常々思っている。三年半前にこの島へやって来たという彼女は、昔見た本でセント・ヴィーナス島を知り、いつか住むつもりでそれがやっと叶ったのだそうだ。
 彼女の名はフレイヤ。年齢は二十二歳(本人談)で、独身。恋人もいないと風の噂で聞いている。常連客ともなると、注文を聞かずに同じメニューを持って来てくれるようになって、それがまた嬉しい。

「お待たせしました。いつものベルツェサンドとアイスコーヒーです」

 読書をしていたニコスの前に、出来立てのベルツェサンドとアイスコーヒーが置かれた。いつものことながら食欲をそそられる美味しい匂いが、サンドが乗った皿から漂う。
 本を一旦しまってから「ありがとう」と返し、ニコスの少し遅い朝食がスタートした。
 ベルツェサンドは<グランツ・カヴァナ>一押しのメニューだが、カフェ独自のメニューというわけではなく、ここベルツェという港町に伝わるいわば伝統料理のようなものだ。炙った肉、野菜、ポテトなどをピタで挟んだ料理で、店によって味付けは異なるものの具材は似たり寄ったり。
 しかし、<グランツ・カヴァナ>のベルツェサンドは加えてザジキと呼ばれる隠し味が入っている。生ヨーグルトとキュウリをすりつぶしたものを混ぜ合わせ、最後にガーリックオイルで味付け。これが肉によく絡んでより美味しくさせている。
 ニコスの表情が自然と緩む。飽きもせずこの味を楽しみに通うのは、料理が美味しいというだけでなく、カフェのオーナーであるフレイヤに会うためでもあった。隠すつもりはないので正直に言うと、ニコスはフレイヤのことが好きだ。もちろん一人の女性として。
 初めてこの店を発見し、彼女を見た瞬間いわゆる一目惚れというものをした。綺麗な所作をする人だと思った。一つひとつの動きが美しく洗練されている気がして、思わず見惚れたのを覚えている。ニコスに積極性があればそのまま告白でも何でもしているのだが、生憎と自分はそういうことに疎くなかなか踏み出せないまま三年の時が過ぎてしまった。
 そしてつい最近のことである。
 彼女が、結婚せずましてや恋人も作らない理由を不可抗力で耳にしてしまったのだ。平静を装って読書をしていたが、内心はかなりのショックでどうやって店を出てきたか記憶にない。と、同時にどこかで納得をしている自分もいた。フレイヤを贔屓目に見なかったとしても、彼女のような人に恋人がいないわけがないのだと。
 しかし、この前の話を聞いた限り、彼女の一方通行のような発言をしていたのが気にかかった。報われない恋でもしているのかと心配になり、聞いてはいけないと思いつつ、ニコスは自分の想いを断ち切るためにあえて自分から尋ねることにした。

フレイヤ。君に恋人がいないって舞い上がっていたけど、本当は好きな人がいたんだね」

 カウンター越しで食器を洗っているフレイヤの手がピタリと止まった。驚いた表情の彼女がニコスを見ている。しかしすぐに合点がいったようで、「この前の話を聞いてたんですか?」恥ずかしそうにそう言った。

「聞くつもりはなかったんだけど、たまたま聞こえてしまったというか……」
「もお。ベネットさん、声大きいからなあ」

 額を押さえて困ったように笑う彼女を見て、あの話が事実であると実感する。いや、先日の時点で多少なりとも覚悟はできていたのだ。今まで一度も彼女の口からそうした浮ついた話を聞いたことがなかった分ショックは大きく、けれど彼女が幸せならばそれでもいいと思えるくらいには今の気持ちは穏やかだった。

「その人とはその……うまくいってないの?」
「え?」
「いや、ほら、心に決めた人がいるのに、その人はここにいないんだろ? フレイヤの片想いなのかな――ってごめん。図々しいよな」
「ああ、なるほど。好きな人はいるのに、恋人がいないから報われない恋でもしているのかってことですね」
「いやあ、えっと、ごめん……話したくないなら別に――」
「いえ、話したくないわけじゃないんです」

 喋っている間も動いていたフレイヤの手は、いま完全に停止している。そしてどこか遠くを見つめるように視線を店の外へ向けた。
 話したくないわけではないという割に、表情は少し暗い。どういうことなのか続きの言葉を待っていると、覚悟を決めたように口を開いた。

「もう、会えないんです。彼とは」

 そう言った彼女は、どこか泣きそうな――泣くのを我慢するようなぎこちない笑みでニコスを見つめた。