瞼の裏でだけ羽化する幻想

 この世界には三つの種族と機械種モータリドールと呼ばれる不老不死の機械人間が存在する。
 三つの種族のうち、人間族はこの世界でもっとも多く、至って一般的な能力で生活を送っている。世界の創造主は彼らである。
 次に吸血鬼族という、人の血を餌にして生きる種族がいる。人間の歯にはない尖った牙を隠し持つ。血を見ると凶暴性が高くなると言われており、基本的に理性がないが特殊な訓練で理性を保てる者も存在する。
 もう一つ、この世界には獣人族と呼ばれる種族がいる。彼らは興奮すると獣特有の習性や行動が現れ、とても力が強い。温厚な獣と野蛮な獣の二種に分かれる。
 厄介なことに吸血鬼族も獣人族も人間と見た目が変わらないので、すぐにそれとはわからない。そしてそれぞれ生活拠点が異なるというわけではなく、自然と人間の中へ溶け込んで生活しているため、平和な地域もあれば当然治安の悪い地域も存在する。それは首都を離れれば離れるほど顕著である。
 そして最後に機械種。不老不死の機械人間。大抵の怪我では死なないが、脳の中枢に"核"と呼ばれる球体が存在し、それが壊れると死が訪れるという。年を取らない彼らは周りから不審がられないように、気づいたら町を去って次の拠点へ向かう言わば永遠の旅人。
 人間から機械種となった彼らの歴史は、決して称賛されるような出来事はなに一つない。
 昔、ほかの惑星からの侵略を防ぐために創造主である人間が同じ種族を機械人間にする計画が立てられた。来るかもわからない戦争のために同族を不老不死にしようとする考えはとても恐ろしいものだったが、当時の支配者たちは計画を強行した。
 このとき、不老不死の"核"の動力源になるとされたのが"とある一族の血"だった。一般的な人間の血と異なり、バッカスという非常に甘い匂いを放つ血を持っていた。女性に限られたその血は、機械種を作り出すための高純度エネルギーの元として大量に必要だったことからその一族の女性が次々に虐殺された。
 こうして人間の愚かな行為で生まれたのが、機械種という可哀想な殺戮兵器である。


 十年生に進学した当日、祖母から聞かされたのは自分にその"血"が流れている一族の人間だということだった。
 例の甘い匂いを放つというのは普通に生きていればわからないものらしいが、皮肉なことにこの血は機械種の動力源だけでなく吸血鬼族の極上の食事、獣人族にとってはより強い子孫を残せるといった、まるで生贄のような特徴があるという。
 一体どこのお伽話だと思われてもおかしくない、到底信じられない内容だった。だからは最初真っ向から否定した。そんなわけない、だって私は普通に生きてる。生きている。これまで誰にも狙われたことなどなかった。たったの一度も。
 しかし"匂い"はどうやら十五歳から二十歳の間に他族から傷をつけられることで発症するのだという。なんとも面倒な特徴を持った一族である。
 祖母は、だから「お前はここから出てはいけない」と言ってをイースタットのはずれにあるフェルトの町に縛りつけた。ここには人間以外の種族がいないから平和に暮らせる。死ぬまで脅かされることなく。そう言って、を雁字搦めにしようとした。
 はじめは祖母の言う通りにしなければならないのだと打ちひしがれて泣いた。医者になりたいと言ったそばから夢を否定され、自分は首都へ行けずにここで一生を終えるという運命に。やりたいことも将来の夢もあったにとってどれほど残酷な話だったか、亡くなった祖母は気にしていないだろう。十五歳は子どもではないが、割り切れるほど大人でもない。
 けれど、そう思っていたのも数か月のことだ。は最初から決められた運命に従うほど従順ではなく、またか弱くもなかった。そんな運命があるならこちらから吹き飛ばしてやるつもりで猛勉強をはじめたは、医者になれないならばせめて薬剤師に、と必死に抗おうとした。
 そんなに呪いの言葉をかけて縛りつけた祖母は、が十五歳を迎えた数日後に亡くなった。必死に勉強するを見て、彼女が何を思ったのかはわからないが、亡くなる直前こんなことも残している。

。お前には辛い言葉ばかりかけてしまったが、希望がないわけじゃあないんだよ。を守って愛してくれる存在が必ず現れるから、信じて生きていきなさい』

 希望がないわけではない。
 ルームメイトのヘラ以外に友人と呼べる友人さえいないにとって、この先生涯を共にできる人など現れるのだろうか。ただでさえ、こんな面倒な血を持っているというのに。ひねくれた言葉は、けれどの喉元でとどまり「うん」と短く答えただけになった。しわくちゃの祖母の右手を握りしめながら、そう残して星になった彼女を、はしばらく見つめていた。


 フェルトに住み続けて十七年が経ち、ウラノス学院で最上級生となったは最後の学生生活を平凡で穏便に済ませて首席で卒業し、町でいちばんの病院近くにある薬屋の薬剤師となる小さな夢を叶えるためにさらに勉強に励む。祖母によれば、十五歳から二十歳の間にその症状があらわれるというから、二十歳をやり過ごせばまだにもチャンスがあるかもしれない。
 希望がないわけではないというの人生は、しかし唐突にねじ曲げられてしまった。三人の得体の知れない吸血鬼によって。

「つまりその変な三人組に襲われて毒を仕込まれたけど、今のところ何ともないから大丈夫って話でいい?」
「……かなりまとめたね」

 星団祭休暇に突入して三日目。は同室のヘラに一昨日の夜のことを打ち明けた。相変わらずベッドの上で寝そべりながら読書をしていたのだが、そわそわと落ち着かないを見かねて「話したいことでもあるの」と向こうから声をかけてくれたおかげで今に至る。
 結論から言えば、の身体には特に異常は見られなかった。三人組のうちの一人が「毒」だなんて恐ろしい単語を持ち出すものだから身構えていたのに、拍子抜けするほどはぴんぴんしている。ただ少し痺れる感覚がしばらく続いただけで、死ぬほどの痛みも苦しみも襲ってこなかった。
 あの日の夜、恐怖に慄き必死の思いで部屋に帰ってきたの異様な様子に、ヘラは気づいていたはずだが、あえて何も声をかけずにそっとしておいてくれた。夜が明けてもその恐怖は消えず、特別することがない休暇が苦痛に感じられては途方に暮れた。急に心臓が止まるとか、激しい眩暈に襲われるとか、そういう恐ろしい想像していたのだから仕方ない。
 翌日の夕方になってようやくの不安は解消されたが、もう一つの――むしろこちらのほうが厄介、事実に思い当たって再び気分は急降下した。だから、つい聞いてしまったのだ。「ねえ、私から変なにおい出てる……?」食堂で夕食を取っている最中、とぼけたようなの問いに案の定ヘラは「はあ?」と声を裏返らせた。

「昨日も変なこと聞いてくるから、薬草の臭いかぎすぎて頭やられたのかと思った」
「それはさすがにひどくない?」
「だってそうじゃない。変なにおい発してるかなんて。毎日シャワー浴びてるのに」

 最もな返しをされては言葉に詰まった。事実、ヘラは何も感じていないし、校内を歩いていても変な目で見られることはなかった。けど、だとしたらおかしい。
 はあの夜たしかに、吸血鬼によって牙を穿たれた。その痕は今もまだ残っているし、恐怖の記憶もきちんと刻まれている。だから幻でもなければ、夢でもない。きちんと現実に起きた出来事だ。
 それなのにどういうことだろう。の身体に変化はまったくなく、例の甘い匂いもどうやら発していないようだった。祖母の話では、十五歳から二十歳までの間に他族から傷をつけられると、身体から一族特有の甘い匂いを発する症状が出るということではなかったか。
 ――まさか、彼らは吸血鬼じゃなかった……?
 いや、そんなはずない。食糧とか数週間ぶりの食事とか言っていた。
 人間の血を食事にしているのは吸血鬼族のみである。だからの血を食事だと言って口にした彼らは間違いなく吸血鬼族だ。それか祖母の話がやっぱりおとぎ話で、そんな血を持つ一族はとっくの昔に途絶えており、は普通の人間だったとか。私をこの町に縛りつけるための脅し――しかし、祖母がそんな無意味な話をするとは思えなかった。

「まあよくわかんないけど、休暇が終わるまで大人しくしてたら? せめて変死体事件の犯人が捕まるまでとかさ」
「そうするべきかもしれないけど、今日は星団祭の初日だしどうしても手に入れたいものがあるの」
「……ってほんとバカというかアホというか無謀というか」
「どれも貶してる!」

 は二段ベッドの上で寛ぐヘラにじっとりとした視線を投げつけた。入学当初から容赦ない言葉を口にする彼女は、そのせいでとはまた別の意味で浮いている存在だったが、不思議ととは相性がよくもう十二年目の付き合いだ。
 ケラケラ笑いながらごめんと一ミリも反省の色がうかがえない言葉に、けれどは別に怒っているわけではなかった。感情を素直に表現できるのは悪いことだと思わないし、まあ時に人を傷つけることもあるが、彼女の場合は相手を陥れるような負の感情が一切ないので受け入れられるのだ。

「とにかく気をつけて。その三人組はまだこのあたりをうろついてる可能性もあるんだし」
「うんわかってる。なるべく早く戻る」

 言ってから、小さなポシェットを肩にかけたは椅子から立ち上がってそのまま部屋の扉に向かった。もう興味が削がれたらしいヘラの視線はすでに本へ移されていて、思わず苦笑いする。本当に自由気ままな人間である。
 ちらりと振り返って、正面の窓から差し込む夕日に目を細めた。そういえば今日は満月だったっけ、とどうでもいいことが頭の隅によぎった。