濁音をはらむメソッド

 吸血鬼族について、が知っていることは意外と少ない。人の血を食糧にしていること、理性がない凶暴的な種族だが、特殊な訓練さえすれば理性を保てる者もいること。これくらいだ。むしろほぼ知らない。
 だから彼らが語ってくれた内容は、には信じられない外の世界の話だった(実際外の世界の話なのだが)。
 ウエスタット地方で育った彼らは、その町で三人一緒に暮らしていた。互いの利益のもとに人間と共存しているという、世界でも稀な地域である。もちろん居住地区ははっきり区切られていて、普段はお互い干渉することはないのだそうだが、最近になって急に吸血鬼族を排除する動きが加速し、ついに暴徒化した。
 吸血鬼狩りが人間たちによって行われ、次々に仲間が殺されていったという。魔の手が彼らの住む地区にも及び、町を飛び出した彼らは一日一日を生きるのに必死だった。見た目こそ変わらないが、喋り出したら最後、牙が見えた途端に人々は恐れおののく。そうして罵声を浴びせる。食べ物もない、住処も奪われた彼らは放浪することになった。
 反撃することもできたが、相手は人間であり、この世界では強い者が弱い者に暴力を振るうことは許されない。それは種族間による戦争を起こさないための暗黙のルールだ。異星人の侵略を恐れた世界は大量虐殺の上に成り立つ機械種という歴史を棚に上げて、理不尽な規範を謳っている。
 こうして彼らは逃げてにげて、命からがらイースタット地方であるフェルトの町までたどり着いた。当然逃亡中の数週間、まともな食事など摂っているわけもなかった。


 荒野の風がびゅうっとたちの間を吹き抜けていく。東の地はほかの地方に比べて昼と夜の気温差が激しくないが、遮るものがないここでは全身で風を受け止めることになるので肌寒く感じるのも無理ない。すぐに戻るつもりでいたから薄着である。
 三人はエース、サボ、ルフィと名乗った。血は繋がっていないが、幼い頃に契りを交わして以降兄弟として共に暮らしているという。エースとサボがの二つ上、ルフィはの一つ下だと教えてくれた。
 そして吸血鬼族の迫害を受けて、ここへ逃げて来たこと。彼らだけでなく、ほかの吸血鬼たちもウエスタットから逃げて別のどこかに潜んでいること。人間の血を分け与えてもらえる場所を求めて旅をしていること。あの日、偶然たどり着いた薬草園にがいたこと。
 エースもサボも、弟が突然悪かったと謝ってくれた。ルフィ本人はよくわかっていないようで、けれど悪いと思っている気持ちはあるらしく「わりィ」と一言。非常に軽く聞こえるのに、邪気のない彼の表情がこちらの負の感情を吸い取っていく。
 吸血鬼が人間に謝罪なんて不思議な光景だ。は今回で本物の吸血鬼と初めて会ったことになるが、理性がない凶暴な生き物と聞いていただけに少し拍子抜けした気分だった。とはいえ、変死体事件のことは許しがたい事実だ。いくら数週間も食事を摂っていなかったとしても、人を殺していい理由にはならない。
 絆されかけたは表情を引き締めて彼らに向かって言った。

「ここも同じですよ、吸血鬼と共存できる土地ではないです。あなた方の求める血を与えてくれる人間はいません。ただ――」
 一呼吸置いて、ゆっくり息を吸う。彼らの目は見ることができなかった。代わりに廃墟の無残なコンクリート床をながめながら、
「何もないというのも大変でしょうからこちらを差し上げます。多少の足しになると思うので、これを持ってどうか今すぐここを立ち去ってください」

 と、付け足したあと持っていた有り金と先ほど買ったお菓子の袋を渡して逃げ出した。彼らは口々に「待てよ」とか「おい」とかを呼び止めていたが、聞き入れるつもりはなかった。そもそもだって殺されない保障はどこにもないのに、なにを悠長に話なんか聞いてたんだろう。彼らの事情には同情する余地はあったとして、人を殺したことに対する罪は擁護できるところなど一ミリもない。

「せっかくのお菓子がっ……」

 祭りで高揚していた気分はすっかり下降していた。荒野を駆け抜けていると、先ほど連れてこられた町の脇道が見えてくる。
 ふと後ろを振り返って確認してみる。彼らは追いかけてきてはいなかった。もしかしたら、一昨日でもう十分な血を摂取できたのかもしれない。人間が三食を必要とするのに対して、吸血鬼がどういう食生活を送るのかをは知らない。渡したお菓子だってないよりはマシだろうという考えがあってのことで、実際人間の血以外は体を満たしてくれないのかもしれない。
 再び町に入ったのでは走るのをやめて一度立ち止まる。息を整えながら、何か拭えない違和感がまとわりついていることに気づいて何だろうと考えた。
 変死体、一昨日の夜、数週間ぶりの食事。それから――
 一つずつ、この数日間に起こった出来事を頭の中で振り返る。そうして何かのピースが当てはまりそうだと気づいたとき、けれど複数の声が一本それた細い路地裏から聞こえた。
 行ってはいけないと脳から出ている信号は訴えているのに、なぜか一歩一歩の足はそこへ向かう。今なら引き返せるし、聞かなかったことにして学校に戻ることもできる。なのに、どうして私の足は真っすぐ進まないんだろう。

「あ……」

 その光景が見えたとき、はすべてを悟った。彼らが変死体事件の犯人ではなかったこと。どうしてもっと早く気づかなかったんだろう。一昨日の夜、彼らが「数週間ぶりの食事」だと言っていたのに対して、ベルリ先生の話ではもっと前から変死体事件は起きていたというのに。
 そこには一人の若い女性に群がって血を貪っている吸血鬼が四人。首、胸、腕、足。すでに息絶えているらしい女性の目は、この世界に未練を残したであろう悔恨や苦痛の表情が伝わるほど見開かれていてとても凝視できるものではなかった。
 放心したまま立ち尽くすに、四つの視線が向けられる。口の端からだらしなくこぼれる深紅の液体に、ぎらつく鋭い二本の牙。エースたちと同じ種族のはずなのに、全然別の種族に見えるのはなぜだろうか。はこれが本当の理性を失った姿なのだと理解する。

「お前、どこからっ――」

 の存在に気づいた彼らが大声を張り上げたとき、固まっていた身体がようやく動き出して反対方向に一目散に走る。恐怖と混乱でもつれそうになる両足は、荒野を駆け抜けたときほどのスピードを出せずにのろのろとしか動かない。
 もう少しで大通りのほうに出られそうというところで、相手のほうが一足早くに追いついた。

「待て!」
「うっ」

 後ろから体当たりされ、そのまま地面にねじ伏せられる。「放して!」喚いてじたばたするが、当たり前に相手のほうが力は上ででは敵わない。もがいているうちに気づけば相手が馬乗りになって口を塞いできた。

「んん、うっ」
「不運だったな。だが、見られたからには殺すしかねェ」
「……っ」
「警官も神官もバカばっかりだ。適当に痕つけて、血を吸い取っておけば吸血鬼の仕業だと思いやがる」

 え――けれど、じゃあその牙はニセモノなの……?
 酸素が入ってこないせいで段々と脳が回らなくなる。遠のいてきそうな意識の中で、彼らが本物の吸血鬼ではないという疑惑が浮上する。
 口を塞いでいた手を離した男は、ポケットからナイフを取り出しての首に近づけると不気味な笑みを浮かべた。

「おれ達は吸血鬼だが吸血鬼じゃねェ。けど、牙はあるし血も吸える。そして本物よりもさらに凶暴性が高い」
「やめっ……い、ぁあっ」切っ先が首筋にぴたりと当てられると、皮膚を抉るように男はナイフでの肌に傷をつけた。痛くて、怖くて、何がなんだかわからない。呼吸が浅い。
「最近迫害を受けて飢えてる奴らばかりだ、人間から疎まれる存在のせいにしとけばいい」
 男が何か喋っているようだが、耳に膜が張ってあるみたいに音が届かない。その間も首の痛みがじわじわとを襲う。血が地面にぽたぽた垂れていく感覚がする。
 こんなことなら大人しく来た道を戻ればよかった。それに、彼らにも申し訳ないことをした。言葉にこそしていないが、彼らを変死体事件の犯人として侮蔑していたことに変わりはない。目尻から涙がこぼれていくのを感じてが後悔しはじめたとき、

「勝手に人のせいにすんなッ!」
「おれ達は雑食じゃねェ」
「今すぐその手をどけないと、本物の吸血鬼が暴れるぞ」

 満月を逆光に三つの影が現れた。
 ぼうっとする頭でも彼らの声はきちんと届くんだな、さっきはあんなに遠かったのに。そんなどうでもいいことが浮かんで重たい目を声のするほうに向ける。驚愕した男たちのくぐもった悲鳴が次々に聞こえて、一人また一人と地面に倒れていく。

「クソッ調子に乗るなァァァ!」

 残りの一人――に馬乗りになっていた男が我に返ったようにナイフを振り回して彼らに突進していったが、それより早く彼らのほうが行動を起こしていた。サボとエースが男の身体を左右から拘束し、素早く相手の死角に入り込んだルフィが地面のほうから空に向かって拳を突き上げる。
 鈍い叫びが寂れた路地裏に響く。ものの見事に男の顎へ拳が命中して何メートルも先に吹っ飛ばされると、そのまま動かなくなった。
 起き上がりたいのに身体が思うように動かないは口を必死に動かそうとして、けれどやっぱり空気がかすれるだけで言葉にならなかった。一連の仕事を終えたとばかりに、彼らは「手ごたえのねェ奴らだ」「二度とおれ達のせいにするな」などと言って憤怒している。

「あっ、ぅ……」どうにか彼らに向かって言葉にならない声を発すると、はっと我に返った三人がくるりと同時にへ視線を寄こした。
「ヤベェ忘れてた。おい、大丈夫か」

 正直に忘れてたと口にしたのはエースだった。三人同時に駆け寄ってきてくれて、心配そうな目がに向けられる。サボが背中を支えて抱き起こしてくれるが、首の傷はまだ熱を持っていて痛みが残っていた。喋りたいのにやっぱり言葉を紡げない。口をぱくぱくさせるだけですべて音にならなかった。
 ルフィがそわそわしながら「大丈夫か」と聞いてくる。美味そうな匂いと言って好奇な目を向けてきた二日前とはまったく違う姿がなんだかおかしかった。

「こっちのほうです!」

 大通りのほうから男性の切羽詰まった声が飛んできたのはそのときだった。
 声は明らかにこちらのほうへ向いている。その後ろでばたばたと警官たちが路地裏へ入ってくるのが見え、たちの間に再び緊張が走る。
 どうやらこの騒ぎが大通りにまで響いていたらしく誰かが通報したようだ。しかしこの状況を説明するには彼らの正体も明かさなければならないだろう、そしてそれは彼らにとって不都合なことだ。
 悩んでいるうちに足音が近づいてくる。今のはただのお荷物だ、置いて行っても問題ないのに彼らは一向にここを離れようとしなかった。本当にどうするんだろう――もう、追いつかれちゃうのに……
 が目を伏せて諦めかけたとき、不意に身体が宙に浮く感覚がして近くにあった何かをとっさに握った。

「つらいだろうけど、少し我慢しろよ?」

 サボの声がやさしく降り注ぐ。掴んだ何かは彼の服で、動けないをどうやら抱えてくれたらしいことがわかる。エースが「行くぞ。もたもたしてっと捕まっちまう」と先を促して、荒野のほうへ駆けだした。
 待ちなさいという叫び声が後ろで聞こえる。吸血鬼というのは身体能力も人間離れしているらしい。警官たちが追いつくことはなく、やがて叫び声も聞こえなくなった。