躊躇いの狭間で(1)

 がアンバー王国のエターナルポースを所持していることは、革命軍にとって――サボにとって想定外であり、どれだけ彼女が冷静な判断を下せなかったとしてもまさかこんなに早く行動に移すとは誰が予想できただろう。自分の言葉が彼女を傷つけたという自覚はあるのに、それでもどこかで期待していたのかもしれない。がサボを裏切るはずがないと。厳しく接することでしか彼女を守れない、情けない自身を隠すために、彼女の優しさに縋った結果がこれだ。どんなことがあっても決して嫌われないという絶対的な自信が、この事態を招いたと言っても過言ではない。
 結局あのあとサボたちはアンバー王国の方角へ船を進めたが、嵐の中で彼女の乗る船を見つけることができなかった。時間と速度から考えても、そろそろ追いついていいはずが一向にが乗っていったと思われる船は見当たらないどころか、嵐がひどいせいでこれ以上進むのは危険と判断し、目的を果たせないままバルティゴへ帰還することになった。
 手詰まりであることは誰もが承知の上だったが、あえてそれを口にする者はいなかった。口にしてしまえば本当に彼女が消えてしまう気がして。希望を捨てたくないのに、あの状況では絶望的であると暗に伝えているようでサボは執務机の上で拳を握る。あまりにも力を入れすぎたのか、手のひらに爪の痕が微かに残っていた。焦っても状況は変わらないのだが、これが焦らずにいられるかと誰に言われたわけでもないのに愚痴をこぼす。

「焦っても仕方ないですよ」

 実際に言われた。報告書を届けに来たコアラである。部屋に自分以外の人間がいることを忘れて、物思いにふけって思考がぶっ飛んでいたらしい。
 アンバー王国の件をに代わって調査してくれているコアラは、あの嵐のあと寝る間も惜しんで仕事をしていた。彼女だけではない、サボを含めたチーム全員が皆どこか落ち着かない様子で仕事をしている。それもそうだ、何かをしていなければ余計なことを考えてしまうから。

「別に、」焦っていないと言おうとして、サボはその続きをのみこんだ。なぜなら全然「焦っていない」ふうを取り繕うことさえできていないからだ。机の上に置かれた調査書や報告書の山は、かれこれ二時間前から始めたにもかかわらず高さが変わっていないし、左手に持っていたコアラから渡された報告書の端がクシャクシャになっていた。拳を握った拍子にどうやら左手も一緒に力を込めてしまったらしく、彼女が「それ原本なんだから」と呆れた声で諫めた。
 が失踪してからそろそろ一週間が経とうとしていた。そのうちころっと戻ってきて「総長」と何事もなかったかのように、この部屋のドアを開けてくれるのではないかという希望も段々薄れていこうとしている。最悪の結果を想像したくないのに、気を緩めた瞬間の笑顔がぐにゃりと歪んでいく。悪夢を追い払うように、やめろとサボは自身の頭に浮かぶ映像を掻き消そうと必死になる。
 そういえばコアラは随分と落ち着いているなと報告書から視線を彼女に移した。の捜索に必死になる一方で、冷静にアンバーのクーデター調査も並行しているコアラの仕事ぶりには感心する。ハックやエリスは心あらずな面を見かけたが、彼女に至ってはむしろ以前にも増して熱心だった。

「コアラ……おれは――」
「サボ君がそんなんじゃが帰ってきたときどうするの」
「…………」
「確かにあの状況じゃ最悪の結果を想像するのも無理ないけど……はきっと生きてる」
「その自信はどこから来るんだよ」
「確証も何もないけど、は生命力の強い子だって、それはサボ君が一番わかってることなんじゃないの」

 力強い瞳がサボを糾弾するように訴えていた。
 言われなくてもわかってる。そんなの昔から知ってるよ、と。胸中では幾度となく出てくる言葉も、今は口にすることができず拭えない不安と葛藤する日々が続いていた。
 の職務に対する想いやプライドは幼い頃から一緒に過ごしてきたサボが一番にわかっていたはずで、だからこそチームから外されたことに苛立ちを覚え、見返してやろうと躍起になることは想定内だった。しかしそれ以上にチームを重んじる彼女は、冷静になればやがて苛立ちを抑えて再び自分の仕事を全うする。定型化したサボとのやり取りだった。厳しくしたって彼女は決して任務を疎かにしないし(上司に対する不満は漏らしていたかもしれないが)、それが彼女の評価すべき点でもある。
 だからこそ、やりきれない。口に出したことはないがは大事な革命軍の戦力だ。加えてサボがずっと大切にしてきた、恩師の忘れ形見である。

「おれだって信じてやりたいさ、あいつはこんなところで死ぬようなやつじゃないって」
「だったらっ……!」
「けど、おれは怖ェんだ……この手からこぼれ落ちるものなんてもうないと思ってたのにな」

 不意に、サボの脳裏に義兄弟の顔が浮かんだ。二年前まで思い出せなかった大切な兄弟を自分はずっと忘れたままだったが、海賊王の息子であるポートガス・D・エースの処刑が引き金となってサボの記憶は革命軍に来る前のこともすべて元通り――というにはエースという尊い犠牲が伴ったのだが、思い出した。
 あのときの喪失感を今でも覚えている。大事な兄弟を喪った悲しみを。血が繋がっていないとか、そういうことではなくて。もっと心の奥底にある深い絆で、あいつらとは繋がっている。ルフィにも死なれていたらどうだっただろう。想像しただけで恐ろしい。も、だからあいつらと同じで大切なのだ。
 コルボ山での日々はサボを強く逞しく育てたが、十歳で革命軍に来てから諜報活動のノウハウや戦い方はすべてドラゴンとウォルトの二人から教わり今の自分が存在する。特にウォルトとは任務の数を共にこなし、失敗してもまるで親が子を嗜めるような優しさを与えてくれた。サボがを妹として扱っていたのは、ウォルトの存在もあったからだ。エースやルフィのように彼女と盃を交わしたわけではないが、妹同然に思えたのもそんな理由がある。
 つまり、サボにとってを失うということは妹を失うと同義なのである。そう伝えれば、しかしコアラは釈然としない表情をしていた。

「本当にそれだけが理由?」

 ぴくり、とサボの眉がつり上がる。含みを持たせたコアラの言葉に心臓の鼓動が不規則になった気がして嫌な汗が吹き出る。しかしそれには気づかないふりをして、穏やかにサボは問いかけた。

「……どういう意味だよ」
「そのままの意味だよ。サボ君がを案じるのはウォルトさんとの約束があるからだろうけど……じゃあサボ君の気持ちは? 本当のところはどうなのかなって思って」

 サボのコアラに対する評価は、優れた部下であり幹部である。そして妙に勘が鋭く小言もうるさい。部下でありながら、ハック同様サボに容赦がない。それは決して不快という意味ではなく、信頼しているからこその発言なのだと心得ている。立場の上下はあっても、それが障害になって任務に支障がでることは一切ない。言い換えれば良い意味で遠慮がないということだ。
 ――これだからコアラのやつは……。
 嘆いたサボの言葉は、しかし彼女には届かない。届かなくていい。頼むから気づかないでくれ、と縋るような目を向けてサボは口を開く。

「本当のところも何も、はおれたちの大事な仲間だろ? それにあいつはおれの直属の部下だ、心配して何が悪い」
「あーうん。そう、なんだけど……」

 お茶を濁した言葉に、コアラは生返事で答えた。聡い彼女のことだからきっと察しただろう。何か言いたげな表情で上司を見やる彼女に胸中で謝って視線をもう一度報告書に戻した。
 しかし疲れがピークを迎えたのか、視界が霞んでいることに気づいていよいよ本当にどうしようもないなと自嘲する。目頭を押さえて揉みこむ仕草をすれば、コアラが「総長」と普段あまり使わない肩書きで呼んだ。

「少し休まれたらどうですか?」

 ともすれば目を閉じただけで眠ってしまいそうになる体は、確かに休息が必要なのだと悟る。これでは仕事どころかの捜索でさえ思うようにできない。
 コアラのありがたい申し出を受け入れて、サボは執務室から自分の部屋に戻ることにした。疲れた脳内は、けれど暴風雨の中を小型船で進むの頼もしくも弱々しい背中と花が綻ぶような笑顔で満たされている。