躊躇いの狭間で(2)

 サボが革命軍に入って間もなくの頃だった。ドラゴンに助けられ記憶が混同している中、家にだけは帰りたくないという強い思いが残っていたこともあって、彼らの厚意で軍に置いてもらえることになった。所持品から自分の名前が「サボ」だというのはわかったものの、それ以外は一切記憶がないせいでこれからどうすればいいのか困っていたというのもあり、革命軍なんて言葉もはじめは知らなかったが、サボはありがたくそこに身を置いて過ごしていた。
 しばらくして怪我も治り、体が思うように動かせるようになった頃、ドラゴンからある人を紹介された。それがの父親であるフローレス・ヴァン・ウォルトだった。ドラゴンとは旧知の仲らしく、革命軍が発足した初期の頃から志を同じくする者として共に戦っているらしい。
 ウォルトが得意としたのは今ではサボがその肩書きを受け継いでいる、諜報活動全般だった。敵の内部に潜入し、情報を得て味方に伝える。リスクはもちろんあるが、それ以上に彼の行動には無駄がなく常に仲間の安全と一般市民への配慮がなされていた。幼いながらも彼のそうした姿に憧れと尊敬の念を抱いていた。
 しかし、訓練となるとウォルトは容赦がなく朝から晩までサボを特別練習という名の地獄に付き合わせた。とはいえ、記憶もない身内もいないサボのことを自分の子どものように可愛がってくれたのも事実であり、一つ何かできるようになるたび褒めて頭を撫でられるのは恥ずかしくもあったが嬉しかった。
 に会ったのは、そんなウォルトとの訓練が始まって一か月経った頃である。いつもの場所へ向かうと、彼の後ろに隠れるようにしてひょっこり顔をのぞかせる女の子がいた。ウォルトが「娘のだ」と紹介してくれたので、サボも自分の名を告げて握手を求めるように右手を差し出した。
 長くて綺麗な黒い髪とぱっちりした目が特徴的な子だが、引っ込み思案なのかちらちらとこちらを見たあとすぐウォルトの脚に身を隠してしまった。革命軍に来て同じ歳くらいの子を見かけなかった分、仲良くなりたい気持ちが大いに打ち砕かれて落胆したのを覚えている。いきなり嫌われてしまったのかと焦ったが、ウォルトが言うには「恥ずかしがってるだけ」らしいのでこれから少しずつ距離を縮めていけたらいいと思ったのだ。

 ところが、これが予想以上に苦戦することになる。は事あるごとにサボとウォルトの訓練についてくるものの、休憩中に話しかけても笑ってくれるどころか会話が成立しなかった。これはもう恥ずかしがり屋だとかいうレベルではない気がするのだが、ウォルトが気長に相手をしてやってくれと懇願するのでサボも無下にはできなかった。
 無視されているわけではなく、質問をしても首を縦に振るか横に振るかの返答しかしてくれないのである。このくらいの年齢の女の子は感情の機微がもっとあるはずで、笑ったり泣いたり怒ったりするのではないだろうかと不思議に思った(もちろんサボの個人的な感覚だが)。
 一週間経っても変わらない距離感に、サボはしびれを切らしてとうとうウォルトに尋ねた。どうしてあの子は笑わないのか、と。表情が乏しいのには何か理由があるはずだ、そうでもなければ人形と変わらない。なぜなら人間は生きていれば、必ずどこかで喜怒哀楽を表現する。サボの質問に、しかしウォルトは困ったように笑って「サボには教えておこうか」としゃがみ、ぽつりと語り始めた。
 の母親はその界隈で有名な鍛冶屋の娘であり、地元の美人看板娘として男性たちから人気があった。ある日、彼女の住む島に当時旅人として放浪していたウォルトがやってきて運命のように二人は恋に落ちる。しかし、婿をとって鍛冶屋を継がせるつもりでいた彼女の父親は猛反対した。ウォルトは根っからの自由奔放な人間で、同じ場所にとどまるということができない質だからだ。
 だが、彼女は父親の制止を振り切ってウォルトと駆け落ちし、数年後にはも生まれ家族三人で幸せに暮らしていた。旅人であるウォルトは年に数回しか帰ってこなかったが、それでも笑顔が絶えない家庭であることに変わりなかった。
 そんな日々もが四歳になる直前に消え去ることとなる。世界政府の加盟国からはずれたその年、国の秩序が乱れ、各地で暴動が起き、制御しきれなくなった結果、名も知れぬ海賊たちの犠牲となった。奇跡的なことに、ウォルトが帰還していたことでは助かったが、母親は命を落としてしまう。それもたちを庇ったことで。

はね、本当はすごく笑う子なんだ」

 過去を話し終えたウォルトが本当に伝えたかったことは、この一言に尽きるのだろうとサボは思っている。そして直接言われたわけではないが、自分に託されているような気がした。どうか笑顔を取り戻してやってほしい。彼が、サボにを紹介したのはきっとそういう意味が込められているのではないか。


 と過ごす時間が増えるようになって三か月目に入った頃。革命軍は一か月ほどとある島に停泊することになった。どうやらこの島を拠点に何かを調査するらしいが、幼いサボはウォルトにくっついて任務をこなしている立場なので詳細は知らされていない。少しずつ現場で経験を積ませてもらっているとはいえ、到底一人でできることではなかった。
 停泊中の間、訓練や調査以外の時間は比較的自由が与えられていたサボは、を連れ出しては彼女の笑顔を引き出すために必死になっていた。ウォルトの話を聞いたせいももちろんあるのだが、それ以上に悔しかったのだ。こちらが何をしても笑ってくれないという事実が。正直、自棄になっている感も否めなかったが、仲良くなるきっかけが欲しかったのかもしれない。
 だから、その日も訓練を終えてと街へ繰り出していた。彼女は相変わらず無表情であるのに、サボが遊びに誘うと必ずついてくるものだから嫌われているわけではないと勝手に解釈している。
 三つ離れているの手を握り、街中を歩く。数日前に比べて人通りが多いのはどうやら縁日が開かれているかららしい。どうりで家族連れが多いわけだ。ふと隣のを見れば、ぼうっとしながら空虚な目をどこかに向けていた。視線の先をたどると、と同じくらいの女の子とその子の間を挟むように歩く両親の姿。
 ――ああ、そういうことか。
 合点のいく光景にどうしたものかと悩んだ末、サボは屋台の一角からたくさんの面が並んだ店でとりあえずひとつを手に取って購入した。

「見ろ、。かの有名な忍者だ」

 ワノ国に存在するという忍者はサボも実物を見たことがあるわけではなく文献で知るのみ。屋台にたまたま売っていたヘンテコな忍者の面を被ってみたものの、これでの気がまぎれるとは思えなかった。

「……」
「……やっぱつまらねェか」案の定である。何をしているのだとでも言わんばかりの双眸に気まずくなったサボは、面をはずして「あっちに行こう」との手を引いてひと気のない公園のほうへ向かった。

 街の喧噪を抜けて、まるでここだけ切り離されたようにぽつんと存在するその公園は中央に噴水を置いたシンプルな作りだったが、数えきれないほどの植物が植えられている綺麗な場所だった。花や木が茜色に染まっている。植物に精通しているわけではないので、見ても名前が浮かばないのが残念だ。
 ひとまず近くのベンチにと座る。さて、これからどうしようか。ちらりと彼女のほうを見ると、やっぱり寂しそうな顔をしている。元気づけてやりたいのにその方法がわからないというのは、こんなにも歯がゆいのだろうか。
 手持ち無沙汰に忍者の面の淵をなぞりながら、このあとのことを考えていたとき。サボの視界にとある木が飛び込んできた。吸い寄せられるように立ち上がって近づき、まじまじとその木を見つめる。太い幹が真っ直ぐに伸び、上方で複数に枝分かれした美しい樹木だった。そこから咲き乱れるオレンジがかった黄色は、自分の髪の色に似ている気がしてどぎまぎする。
 考えるより先に手が動くことは、サボの中で比較的珍しいのだが、この時ばかりは違っていた。偶然にも地面に落ちていた綺麗なそれを拾うと、一目散にのもとへ駆け戻る。

! これっ……」

 名前を呼ぶと、俯いていたが顔を上げる。
 視線が交わる。
 手に握っている名前も知らないそれを彼女の前に差し出した。
 はっとした彼女の表情が、驚きと困惑と微かな喜びの入り混じった複雑なものに変わっていくのがわかった。まるで事切れたロボットが息を吹き返したような、バラバラになったパーツをかき集めて元通りの形にしたような。でも彼女はロボットでもなければ、人形でもなくて。ただの七歳の女の子で、すごく笑う子。ウォルトが言っていたように。
 差し出されたお世辞にも綺麗に切ったとは言えない数本の枝をゆっくり手に取った彼女は、これでもかと目を開いて見つめていた。誰かが切った枝のいくつかが地面に落ちたのだろう、サボはたまたまそれを見つけて彼女に渡した。切った枝は不揃いだったが、その先に咲く黄色い花は房状になっていてまるで羽毛のようなふわふわした触り心地でうっとりする。
 ふと、が小さく口を開いて何か呟いた。けれど聞き取れない。どうした、と彼女の口元に耳を近づけるようにして屈む。

「この、お花……」
「綺麗だろ? 名前は知らねェけど、誰かが切ったらしくて落ちてたんだ」
「……み、もざ」
「え?」
「このお花、ミモザっていうの」

 受け取った枝の先をサボに見せるように、ぐいと近づけてきた。
 ミモザ。舌で転がしてみるが、花には疎いのでやはりピンとこない。房状に咲くのが葡萄みたいだなんて、全然情緒もない感想しか抱けなかった。
 サボの微妙な反応に、けれどは気にしたふうもなくぽつりと呟いた。

「おかあさんが、好きだったお花」
「…………」
「おかあさんのために、おとうさんがよくプレゼントしてたお花だから」
「そう、なのか。ごめん……」
「なんで謝るの……?」
「だってそれは……嫌なこと思い出させちまったから」

 彼女の母親は目の前で殺されたも同然で、それが彼女に心の傷を作った原因で。知らなかったとはいえ、傷をえぐるような形になってしまったことに変わりはない。ああ、どうしてうまくいかないんだろう。サボは嘆きたくなった。年下の女の子を笑顔にすることさえできない自分に、一体この先なにができるというのか。
 俯いて落ち込むサボに、ふわっと甘い香りが漂ってきたのはそのときだった。

「わたしも、このお花が好き」香りの正体はもちろんミモザであり、が一本の枝をサボの顔先に突きつけてきた。
「…………、」
「だから……ありがとうサボ君」

 どうやったら笑ってくれるんだろう、とずっと考えていた。面白いと思うことを何通りも試して、でも失敗して。悔しさだけが募っていく日々。訓練した分、能力は目に見えて伸びていくのに、との距離は近づくたびに心が離れていくような気がした。けど、それが――
 サボはそっとの頬に手を伸ばして、はらはらと落ちていく雫を拭った。

「いいよ、が笑ってくれたから」

 初めて見たの笑顔は、涙で滲んだ切なくどこか寂しげだったのだが、心からの「ありがとう」という言葉がサボの体をじんわりと内側から温めていった。悲しくないわけがないのに、それでも笑ってくれた彼女がどうしようもなくいとおしくて、サボは急に鼻の奥がつんとしてこみ上げてくるそれを堪えようと必死になった。


*


 ああ、これは夢か。
 随分と懐かしいものを見ているなと、サボが夢を夢だと自覚し始めたとき――外の世界から荒々しいノックの音が聞こえた。もう少し過去の思い出に浸りたかったのだが、そういうわけにもいかず体を起こして扉の向こうの人間に応対する。

「サボ君! から連絡が来てる……!」

 コアラが言い終わるのと同時に、サボは部屋を飛び出していた。