躊躇いの狭間で(3)

 コアラが慌ててサボを呼びに行ったのは他でもない。執務室の電伝虫が鳴って応答してみれば、だったからだ。
 いろいろな意味で疲れている上司を追いやったコアラは執務室に残って作業をしていた。を案じているのは何もサボだけではない。彼女は自分より長く革命軍にいながら、年齢的にも立場的にもコアラのほうが上にあたるが実質気心の知れた友達のような存在だった。流行りのスイーツやリゾート地の話をしたり、ファッションにはあまり興味ないを無理やり買い物に付き合わせたり。任務以外のこともたくさん語り合う仲だ。先輩後輩の前にコアラとは、そうした絆を結んでいる。
 が行方不明になって一週間。忙しく手を動かしていないと、ふとした瞬間によぎってしまうの顔がちらついて離れなくなる。無事を祈ることしかできないのがもどかしく、不安な日々を過ごしていた。サボにあんなことを言ってしまったが、人のことを言えた義理ではない。考えれば考えるだけ深みにはまる。抜け出せない暗い井戸のような。
 黙々と紙の束を捌いていたコアラは、だからそれが突然鳴り始めたとき肩をびくりと震わせた。独特の声を放つ電伝虫を、深呼吸してから取る。

「はい、こちら革命軍コアラ」
『あ、コアラちゃん!? 私、です』
「えっ……!」

 時が止まったように二の句が継げないでいた。思わず受話器の先を見つめてぽかんとしてしまった。だって、そんな、が。頭の中にいくつもの「何故」を浮かべては消し、コアラの思考回路の処理速度が著しく鈍くなっていた。だが、大海原に放り出されてしまった子どもを引っ張り上げるようにの声がコアラを現実に引き戻す。

『迷惑かけてごめんなさい。実は――』


*


 の話を一通り聞き終えたあと、サボを呼んでくるから切らずに待っているよう頼むと電伝虫の向こう側でぼそぼそ話し声が聞こえた。
 は今、ハートの海賊団と共にいる。彼女の話が事実なら海賊船に乗っていることになる。これが海軍や政府の船だったと思うとぞっとした。話している相手は船長のトラファルガー・ローだろうか、うまく聞き取れないものののほかに男性と思われる声が微かに聞こえる。
 しばらくしてから承諾を得られたというので、コアラは休んでいる最中のサボを起こしに向かった。肝心の彼は寝ていたとは思えないほどの素早さで執務室に向かうものだから苦笑いしてしまう。””という単語に反応が速いのは誰よりも心配しているからだろうが、それだけではないのもまたコアラはわかっていた。
 執務室に戻って繋いだままの電伝虫の受話器を乱暴に掴んだサボは「!」と叫んだ。

『総長っ……あの、』
「無事、なんだな?」
『……っ、はい』
「この際、勝手に出ていったことは咎めない。だからさっさと戻ってこい」

 サボの言葉にの息をのむ仕草が伝わってくるようだった。許してもらえるとは思っていなかったのかもしれない。サボが来る前、自身の勝手な行動で迷惑と心配をかけたことを何度も繰り返し謝っていた彼女の様子を知っているコアラは、微笑ましいものを見るような目で二人のやり取りを見守った。
 しかし「戻ってこい」というこれ以上ない言葉に、は言い淀む素振りを見せた。要領を得ないもごもごとした喋り方はいつもの彼女らしくない。サボも同様に何か言いようのない違和感を覚えたのか、口にしたくない気持ちを抑えて問いかけた。

「どうした。何か戻ってこれない理由でもあるのか」

 サボの声は先ほどの柔らかい声色から若干低くなっている。長く付き合っていなければわからない程度のものだが、きっとにも伝わっただろう。電話相手のただならぬ気配を。
 それでもが答えにくそうに「あの」とか「えっと」とか場つなぎの言葉ばかりを並べ立てていたとき。
 聞きなれない男の声が割って入ってきた。

『戻れねェ理由ならある。こいつは虚偽の発言をした挙句、船長室に忍び込んで電伝虫を盗もうとした。仲間と連絡を取りたいというからそれはまァ許すとしても、タダで貸すんじゃ割に合わねェだろう』

 ぬ、盗もうとしたんじゃないと否定するの少し遠い声が聞こえる。形式上は捕虜になっているというが、どうやらまったくの自由がないわけではなさそうだ。そもそも自由でなければこうして連絡することも叶わなかったはずである。
 緊迫した雰囲気が流れる中、難しい表情で電伝虫を睨むサボが重たい口を開いた。

「……トラファルガー・ロー、一体なにが望みだ」
『この女がアンバー王国のエターナルポースを持っていた。結論から言えば、おれたちはそこに向かう』
「……それはも連れていくという意味なのか」
『願ったり叶ったりだろう。革命軍はアンバー王国の調査をしていると聞いた、お前らとはそこで落ち合えば済む。なにか問題でもあるか?』
「問題大ありだよ、サボ君!」

 これまで彼らの会話を黙って聞いているだけだったコアラはが言い淀む理由をやっと理解し、口を挟んだ。自分が招いた結果を謝罪していただけではなく、暗にこのことを伝えたかったのかもしれない。調査をはずされ勝手に行動してしまったことを悔いていたが、結局のところ一緒に乗り込む羽目になるなんて。皮肉にもほどがある。
 焦るコアラをよそにサボは至極冷静な態度を崩さないどころか、コアラに向かって「落ち着け」と制止をかけた。しかしそれも見せかけだということがすぐに知れる。数時間前と同じように、彼の拳が強く握りしめられていた。静かなる怒りを感じ、コアラは思わず身震いする。

「問題があると言えばあるが、お前たちがをつれてアンバーに行く理由がわからねェ」
『そうだな、確かにはおれの直接的な目的とは関係ない。情報を得るために必要なだけだ、最悪いなくてもどうとでもなる』
「だったらあいつを巻き込むな、どこか近くの島で下ろせ。エターナルポースならくれてやる」
『その言い方だとまるでこの女がアンバーへ上陸することが危険だというように聞こえるな』

 コアラはすべてを見透かされているような心地に陥った。どくりと嫌な音を立てて心臓が鳴っている。
 トラファルガー・ローはまるでの事情を知っているような口ぶりだった。さらにこちらがそのことを彼女本人に隠していることを知っているように聞こえた。言葉巧みに誘導されている。
 サボの表情が見る見るうちに歪んでいく。こめかみを引きつらせて額の前で両手を組む姿勢は、何をどう切り返すべきか考えあぐねているようにみえる。コアラも同様にこの状況を打破する方法を必死で考える。を、アンバーから遠ざける方法を。
 けれど、同時にコアラの頭の中で別の声も聞こえていた。本当にそれでいいのか、と囁く誰かがいる。思えば、今までそれが正しい選択だと疑わなかったのだ。サボが決めたことだからという理由もあったが、同じようににとってもっとも傷つかない道だとコアラも信じていた。そして今、思わぬ方向からその選択が本当に正しかったのかを問われているような感覚に襲われている。
 自身が決めたわけではない。彼女に記憶がないのをいいことにコアラたちが箝口令を敷いて全員が知らないふりをしている。も一度記憶が不鮮明なことをサボに尋ねたことがあったようだが、うまく誤魔化したのかそれ以降話題になっていないらしいのでこれまで問題なかったのだ。十年の間、誰にも触れられることなく彼女が笑って生きていることがその証だった。
 この会話をはどんな思いで聞いているのだろう。自分の知らない何かが水面下で動き始めていることに動揺しているだろうか。彼女の気配が感じられないのが気になったが、いなくなったとは考えにくいので近くで聞いているはずだ。
 沈黙していたサボがやがて組んでいた両手を解くと、覚悟を決めたような目を電伝虫に向けて言った。

「……お前の言い分はわかった。をアンバーへ連れていくことも許可する。けど一つだけ誓え」
『なんだ』
「上陸してもを下船させるな。おれたちが着くまで絶対に」
『……それは例の件が関係してるのか?』
「知ってるなら話は早い。そういうことだ」

 どうして知っているのか。
 サボは問わなかったが、胸の内が手に取るようにわかってしまう。問い詰めたい気持ちはあるのにそばにがいるせいでその問いは禁じられている。そう考えると、彼はあくまでに本当のことを伝えるつもりがないのだろうか。コアラの中で生まれた微かな疑問は解消されることなく靄を作ったままそろそろ電話を切ることになった。

、お前が無事でよかった。アンバーで会おうな」
『…………総長、』
「ん? どうした」
『……いえ、何でもないです。あのときは本当にすみませんでした』
「もういい、怒ってねェから」
『ありがとう、ございますっ……では』

 小さく鼻をすする音が聞こえたと思ったら、向こう側でガチャリと受話器が置かれて通話が切れた。の涙ぐむ声を久しぶりに聞いた気がする。今回の件は相当堪えたらしい。
 ちらりとのぞいたサボの目が優しく細められていて驚く。指摘するとまた言い訳するだろうから口にしないが、彼は隠しているようにみえて隠せていない。に対して厳しく接しているつもりなのだろうが、周りは気づいている。厳しくしているのではなく、彼女が危険な目に合わないよう囲い込んでいるということを。本人だけが気づいていないせいで成り立っているのだ。
 そもそもサボの過保護さをただの妹に対する親心だと思えば可愛いものだが、実際はもっと複雑で一言では片付けられない感情が入り混じっている。を大切に扱えば扱うほど、サボは自分で自分の首を絞めている気がしてならないコアラは、二人が笑っていられる未来を願わずにはいられなかった。

「コアラ。ハックとエリスを呼んで準備してくれ。アンバーへ向かう」

 しかし今はと合流することが先だ。コアラは上司の指示に強く頷くと、ハックたちの元へ走って向かった。