過去を悔やむ者(1)

「コアラさん、どうにかしてください! 近づけません」

 革命軍本拠地の廊下で、困り顔をする部下からすれ違いざまに言われた。"何を"とは聞かなくともわかっている。隊員たちからの半ばクレームに近いそれを聞いたのは、実は今日が初めてではない。二日前にも同じようなことを別の仲間から言われたのだ。
 上司の心の機微をどうして部下であるコアラが気にしなければならないのか。同じチームとして長くやってきた経験を鑑みても、彼の心の靄は「彼女」にしか晴らせない。今はここにいない「彼女」しか。
 とはいえ、表面上は何でもないように見せているし、質問すれば受け答えはとりあえずできる状態なのでわかりやすいほど沈んでいるわけではない。彼らの言う”近づけない”というのは物理的な距離ではなく、もっと精神的で傍から見たらわからない意味で捉えるべき内容だった。彼の心情は、の心配ただそれだけである。
 コアラは涙目の部下に苦笑いで答えると、本来の行き先であった倉庫ではなくそのまま上司の部屋へ向かうことにした。

「もお、昨日も言ったばかりなのにサボ君ってば懲りないんだから」

 コアラは誰に言うともなく呟いて、廊下を走っていく。
 アンバー王国への出発は今夜の予定になっているが、それまでに片づけておく案件がいくつかあり、ここ二日間ほどコアラの周りはせわしなく機械のように動き回っている人間が多い。自分もその一人ではあるものの、上司の仕事ぶりには頭が上がらない。正確に言えば、仕事の鬼と化しているだけで、そこの原動力はやはりが関係しているのだが。
 一つ階を上がって突き当たりの部屋をノックする。予想通り、返事はない。本来であれば失礼に値する行為だが、彼との間に築く信頼関係のもと、それを盾にコアラは扉を思いっきり開けた。
 案の定というべきか、彼は机にかじりついて作業していた。見た目は至って通常であり、特に問題があるように見えない。すべて表面上の話である。
 本人に近づいていき、机を挟んで上司と向かい合う。まだ気づかれないということは相当だ。どうやって気づかせるべきか、コアラは思案する。きっと普通に声をかけても彼は気づかないだろう。まるで仕事という名の呪縛にでもかかったような。だったらそれを解く魔法の呪文は――

「サボ君、から連絡きてるよ」
「えっ!」
「……」

 ペンを持つ手が止まり、これでもかと見開く上司の双眸と対峙する。呆れた。彼らは知らないだろうが、この上司はのことになるととことん参謀総長のメッキが剥がれ落ちる。一番厄介なのは本人がそれを断固として認めようとしないことだ。まるで認めたら、何かが壊れるかもしれないと恐れているように。
 コアラは相手にわかるくらいのため息をついて、サボの焦った顔を見つめた。

「う・そ。みんなが近づけないって嘆いてたから私が注意しに来たんだよ。気持ちはわかるけど、そんな詰め込んだら体壊しかねないでしょう?」
「嘘ってお前な……」
「決まったことはもう仕方ないんだし、いっそのこと本人に打ち明けたらどうですか」

 打開策というほどでもないが、少なくとも上司のわだかまりはとけるのではないか。一度ペンを置いたサボは背もたれに寄りかかって、こちらに不機嫌な表情を隠そうともせず見せる。全然納得できないという顔だ。

「そんなことしてみろ、あいつは何が何でも立ち向かおうとするぞ」
「別にそれでもいいと思うけどね、だってもう子供じゃないし。前にも言ったけど、あの子はサボ君が思ってるより強いよ」

 まあだからこそ、無茶をしかねないという懸念はあるけれど。それでも真実を知ったがどう生きるかは、いくら兄のように接してきたサボであっても止める権利はない。彼女がどう決断しようと、彼女自身が決めたことなら背中を押してあげるべきではないだろうか。
 といっても、彼が本当にただの兄でいられたらの場合だ。彼には海賊の弟がいるが、同じ過保護でもそこに含まれる感情がまったく異なる。指摘しようにも彼の中ではないものして扱われているせいで、こちらからそれ以上踏み込むことができない。鉄壁とも言える頑なな心を崩せる者がいるとしたら、それはただ一人だろうとコアラは思っている。
 がサボを兄として慕っていることは間違いないが、サボがを妹よりもっと複雑な――恋とも愛とも言い難い感情で見ていることを、本人は隠し通すつもりなのだろうか。自ら嫌われるような発言をしている様子は見てて居たたまれない。特に最近は以前よりも増して酷いと思っていたところにこの事態である。二人にとって何が幸せなのか、コアラは答えの出ない問いを自身に投げかけた。

「いいんだよ言わなくったって。あいつが笑ってるなら」

 やるせない、どこか自嘲気味な言い方だった。笑ってるならいいというけど、じゃあ彼の気持ちは一体どこへ行くんだろう。そのままずっと水底に沈めておくなんて、いくらなんでも辛すぎないだろうか。
 サボもも、コアラにとって大事な仲間であり同志である。どちらかだけではダメなのだ。どうしてそれをわかってくれないのだ、この上司。
 と、あてどもない叫びは胸中で虚しく消えた。代わりに業務連絡を口にして誤魔化す。

「とにかく、今夜出発だからね。無理しないでよ」

 踵を返してコアラは執務室を出ていく。小さく聞こえた「ああ」という声に、行き場のない苛立ちに似た感情がこみ上げてくるのをこらえた。


*


 そろそろ準備をしなければならないのに、先ほどのコアラとのやり取りが頭から離れなくて困っている。
 ――いっそのこと本人に打ち明けたらどうか。
 なんて、結果が目に見えてるじゃねェか。事実を知ったら、今度こそ笑わなくなるかもしれない。それよりも怒りに任せて危険なことをしでかす可能性もある。現状があの事件を忘れていることが救いだが、アンバーに行くことが引き金になる場合も否めない――だというのに。

「トラファルガー・ロー……油断ならねェ奴だ」

 ぽつりと呟いて、サボは二日前の彼とのやり取りを思い出す。まるで十年前のことを知っているかのような口ぶりで、がこのままでいいのかとこちらが問い詰められているような感覚に陥った。
 その問いに対するサボ個人の考えは、今のままでいいというのが現状である。コアラに言ったことは何もサボの妄想ではない、の性格を理解した上での言葉だ。父親に似て正義感が強い彼女は、事実を知れば必ずアンバーへ行こうとしただろうし、父親の本懐を遂げようと必死になるだろう。不可抗力だったとはいえ、結果的にはアンバーへ行くことになってしまったが。
 しかし、実際は何が正解なのかわからなくなってきていることも否めなかった。自身の考えに迷いが生じている。にとって何が最良なのか。事件の記憶がないのならそれでいいと思ってきた十年間だったが、彼女がアンバーの情報を掴んできた時点ですでに狂い始めていたのかもしれない。関わることなどないと思ってきたのに、十年の時を経て自ら掴んで暴きに行こうとしているとは、さすがのウォルトも予想できなかっただろう。そもそもサボだって、なぜ今になってあの国がまた妙な動きを始めたのかわからないでいるというのに。

「ウォルトさん……おれはどうしたらいいですか」

 椅子に体全体を深く沈めて天井を見上げた。
 に会うときはもうアンバーの土地にいるときであり、そうなったらサボにも事態がどう転がるかはわからない。であるならば、その時の最善の選択をとるしかない。が笑っていられる未来をサボが守るために。