メルティング・ハート(4)

 何か柔らかいものの上にいるような、そんな夢心地でサボは薄っすら意識が浮上しかけたのだがあまりの気持ち良さにもう少し堪能していたい欲望にかられて再び瞼を閉じようとする。しかし、その思考に待ったをかけたもう一人の自分が少し前までの行動を振り返るよう命令してくる。ここで微睡んでいる場合じゃないぞ、という警告がサボの意識をゆっくり呼び覚ます。
 確かと気まずくなり、四人での食事を断って一人で飲んでくるとコアラに伝えたんだったか。宿の近くの酒場に行って、一人だというのに普段の倍以上は飲んで、カウンター越しにマスターが呆れかえった表情で飲み過ぎだと苦言してきて――そのあと、どうしたのだろう。宿にはきちんと戻ったはずだが、酒場を出たあたりから記憶が曖昧になっていた。
 そのとき、ほのかに甘い香りがサボの鼻孔をくすぐった。
 あ……。と、胸の内で香りの記憶を探しながらたどり着いた答えにサボは我に返ってあからさまに動揺する。閉じかけた瞼を重力に逆らうように開けて、その正体を確認したと同時に声にならない叫びをあげそうになった。

「……っ!?」

 柔らかい"何か"の正体は、だった。
 なぜかサボは彼女に覆いかぶさるようにして今まで眠っていたらしく、それも寝具の上ではなく部屋の入口近くの廊下で寝ていたようだ。驚愕しながらも、頭では理解しようと必死に状況を整理する速度を上げているのに全然追いつかない。一体なぜこんなことに――
 動揺を隠せないまま上半身を起こそうとして、サボは右手に違和感を覚えた。

「えっ……」

 まったく記憶にないが、サボの右手はの左手としっかり繋がれていた。それこそ何度も手を繋いだ、幼い頃のようにしっかりと。妹の面倒を見る兄のような気持ちでいられたあの頃の。ただ、ひとつ。あの頃、指が絡むことはなかったが、今この瞬間サボの指は彼女のそれと綺麗に絡んでいた。サボがそうしたのか、がそうしたのか。やはり思い出せなくて頭は混乱するばかりだった。
 しかし、彼女がここにいるということは、サボは間違って彼女の部屋に入ってしまったのだ。ようやく冷静になった脳内で自分の失態に気づく。二人とも着服しているから間違いは起きていないだろうことはわかるが、それにしても、である。
 に対して余計なことを口走っていないか。次に考えられる恐るべき事態はこれだ。酔った勢いで、自分が何か言ってはいけないことを口にしていないか。確かめる術がなかった。まさか本人に聞くわけにもいくまい。

「――いや、それよりも先にこの状況をどうにかしないと、だよな」

 ひとまず塞がっている右手を解放するために、あいているもう一方の手での指をほどいてく。起こさないようゆっくり、丁寧に。何年ぶりかに触れる彼女の指の柔らかさや温かさを確かめるように。
 そうして五本の指が解放されたあと、体を起こして大きくため息を吐いた。この数分ですっかり酔いもさめてしまったサボは、壁に背中を預けると目を覆って脱力する。自身が招いた事態だとはいえ、一体何してんだと怒りたくなった。
 すやすや眠るを見ながら、自分がこの部屋に入ってきたときの彼女を想像した。酔っ払いを前にどうすればいいか困っただろう。仮にも上司であり、兄のような(たぶんきっとそう思ってくれている)自分を彼女が蔑ろにするはずがないことは自負している。どうにかして出ていってもらおうと試行錯誤したに違いない。だが、実際サボはまだ彼女の部屋にとどまっているし、おまけに彼女を下敷きに眠り込んでいた。これがどうして怒らずにいられよう。上司失格もいいところだ。

「ああーかっこ悪ィな」

 呟いてからもう一度深くため息をついたサボはに近寄ると、首と膝裏に手を滑らせてその体を抱き上げた。シャワーを浴びただろうに、床へ押しつけるようなことになって申し訳なく思う。せめてもの償いとして起こさないように優しくベッドに横たえてやれば、表情が少しだけ和らいだ気がした。脱力した人間は想像以上に重いし、ましてやより大きい男のサボが覆い被されば相当負担がかかったに違いない。
 そのまま立ち去ることもできたのだが、無防備になっているの姿を久々に見たサボは魔が差したようにベッドに腰掛けて手を伸ばした。
 指の外側で頬に触れたのち、往復させてその感触をしばらく堪能する。彼女は線が細いので一見頼りなく見えてしまうが、革命軍の一戦士であることに変わりなくそれなりに鍛えている。とはいえこうして眠っている姿はなんてあどけないのだろうか。
 そういえば十年前は空き家に潜伏していたから隣で寝ていたなと昔のことを思い出して自然と頬が緩む。お互い年を重ねてもうそれは叶わなくなったが、今でもの笑顔は脳裏に焼きついている。あの事件が起きるまではサボの心も平穏だったし、どこかでこうした日々が続いていくものだと信じて疑わなかった。そう、あの頃は何も気にせず傍にいることをただただ嬉しく思っていたのだ。
 それがすべて十年前のあの日に変わってしまった。環境も、記憶も、想いも。けど――

「トラファルガー・ローとなに話したんだよ……」

 なにか不快に感じたのか、が身じろぎしたので慌てて触れていた手を離した。小さな唸り声をあげたものの、再び規則的な寝息が聞こえたのでほっと胸をなでおろす。起きたかと思ったが違ったようだ。硬い場所から急に柔らかいベッドに寝かされて驚いたのかもしれない。
 ごめん。音にしないまま胸中で呟いて、サボはの寝顔を再び見つめる。何に対しての謝罪なのか、自分でもわからなかった。
 あのとき誓ったはずだった。彼女から笑顔を奪わない、いつでも笑っていられるように。それがウォルトとの約束であり、サボが自分に課した義務だ。だからあらゆる手を回して彼女を傷つけるものから遠ざけてきたし、卑怯な手を使ったこともあった。それが裏目に出てとは気まずくなってばかりだが、それでもいいと思っていた。彼女の生きる世界が、平穏なままでいられるのなら。それを陰ながら自分が作っていけるのなら。
 しかしここに来て、サボの心はどうだ。十年前の事件に繋がる情報を、は自分で見つけてアンバーにたどり着き、しまいにはトラファルガー・ローという海賊と出会い何か覚悟を決めたような顔つきになっている気がして、胸のあたりがずっともやもやしている。
 彼女に過去の話を聞いたのか問えば違うというし、けど表情からそうだとは思えない自分がいて。腹の底に押し込められてふつふつと脈を打つ、この熱は一体なんなのだろうと思っていたが、認めてしまえば簡単なことだった。コアラにもエリスにも、誰に指摘されようが知らないふりをしてきたサボは初めてが遠くへ行ってしまう不安にかられた。
 しかしの人生だ。彼女がどういう道を歩もうと彼女の勝手であり、それをサボに制約される理由もなければ筋合いもない。だから、もし仮にトラファルガー・ローに絆されてそのまま奴の海賊船に乗ったとしても構わないのだ。彼女が父親の意志を継いで革命軍に身を置いていると信じてはいるが、自由に満ちている"偉大なる航路"で世界を知っていくうちに気が変わらないとも限らない。
 ――それのなにがいけない? が決めることだ。あいつが笑っていられるなら別にここじゃなくたっていいはずだ。
 ……いや――そうじゃないだろ? 相反する心に拳を強く握った。

「大事にしすぎて、途中からどうすればいいかわからなくなったのかもな」

 頑なに認めようとしなかった気持ちは一度認めてしまえばわかりやすい。
 サボはを、革命軍の仲間や妹としてではなくただ一人の女として愛してしまっていた。どこで芽生えたのか、その始まりはわからないが、この熱の正体はきっと彼女に対する想いから来るものだ。笑っていられるなら"ここ"じゃなくてもいいなんていうのは建前で、本音を晒すなら"サボの隣"である。ウォルトとの約束を通り越して、これは単なるサボの我儘だった。
 しかし認めたとはいっても、それを告げていいとは思わなかった。大事にしてきたというのはあくまでサボの側から見た光景であって、彼女にはきっとそう映っていないだろう。積み重なっていくうちに雁字搦めになってしまったサボを、今さら体よく「お前のことが大切で仕方なかったから受け入れてくれ」なんて都合よすぎる。
 こんなふうにしか守れない自分を許してほしいとは言わない。きっとこの先も利己的に彼女を縛りつけてしまうだろうから。

「ごめんな、

 彼女の右手を取って、指先にそっと口づけた。
 誰も見ていないこの瞬間だけは、彼女がサボのものであると夢見心地の気分に浸りながら静かに部屋を後にした。