雨の中の邂逅(1)

 降りそうだと思っていた雨は、なかなかどうして粘り強く、結局のところそれから二時間ほど経った頃に土砂降りとなった。幸いなことに進行方向には晴れ間が見えているので、数分と経たないうちにこの低気圧地帯から抜けるだろう。は用意しておいた雨合羽をかぶると、船内に身を隠しつつエターナルポースの指し示す先を見失わないよう様子をうかがう。
 しかし海の天気というのは気まぐれなもので、時折予想もしないことが起こったりする。おかしいなと思ったのは雨が降り始めてから三分ほど経過した頃だろうか。雷が轟き始めるのは想定内。波が荒れるのも予想通り。だが、この強風は異常ではないか。には最低限の航海術はあっても、気象についての知識は人並み程度しかない。それでもバルティゴ近辺でサイクロンの予兆はなかったはずだし、すぐに抜けるだろうと考えていた。

「……なのに、どういうことなのこれ」

 甲板に出たは進行方向を確認する。やはり渦巻き状の雷雲が垂れこめており、先ほどまであったはずの晴れ間はもう見えなくなっていた。
 打ちつける雨の激しさが増す。そろそろ合羽が意味をなさず、中の服に染み込んでいくのがわかって気持ち悪い。が向かう先はどうやら雷雲の中心部だったが、このまま突き進めば確実に船ごと木端微塵になることは火を見るよりも明らかだった。
 そうとなれば、取る行動はただ一つ。

「進路変更しかない、よね」

 は舵をとって船の進む方向を右に変更した。若干の遠回りにはなるものの、ここで船ごと沈没するよりは断然良い選択である。
 面舵一杯、船が右方向へ旋回する。もう一度甲板に出て確認すればなんとか雷雲の中心部から逸れることができそうだった。海の――というより"偉大なる航路"の天候はいつ何が起きてもおかしくないと言われているだけあって、超常現象に巻き込まれることはままある。特にこの海では四季があることにはあるが、それぞれの島にそれぞれの四季が存在するという不可思議な現象が発生するため、馴染むまで時間がかかる者もいる。が物心ついたときには、すでに"偉大なる航路"の上にいたのであまり苦労した記憶はないけれど。
 唸り声のようなどよめきとともに、風も強さを増していく。甲板に立つのも危うい状況になってきたと思った刹那――まるで人為的な、自然のものとは思えない突風がの船を襲った。横殴りの雨はサイクロンの影響だろうか、目を開くのも一苦労する。
 何よりついてないのは進路変更したを追ってくるように、雷雲が移動していることだった。身を守るために船内へ避難したものの、意味のないような気がする。
 そしてに最大の災いが降りかかる。激しい轟音が聞こえて、思わず音の方向へ飛び出したは驚愕に目を見開いた。

「嘘でしょ……っ」

 マストが焦げていた。雷がこの船に落ちたらしいことがわかり、途中に亀裂が入っていることがその衝撃の強さを物語っていた。
 ――これ、大丈夫なんだろうか。
 航海中におけるサイクロンや悪天候にはある程度経験を積んでいるだったが、今回のような予想をはるかに上回る嵐にはまるで遭遇したことがなかった。そしてが今一番恐ろしいと思ったこと。それは――
 この船にはただ一人しか乗っていないということだった。指示してくれる上司も、共に支え合う同僚も、サポートしてくれる後輩も。すべて一人でどうにかするしかない現実に打ちひしがれる。
 呆然と焼け焦げたマストを見つめながら、まるで時が止まったかのようにはどうすることもできずにいた。容赦なく身体に打ちつける雨の音が鼓膜を揺らしていく。次第に波の荒々しさが先ほどよりも増して、船体が大きく揺れ動いた。その衝撃にバランスが取れず足がもつれたはマストに背中を強く打ちつけてしまった。

「……っ」言葉にならない悲鳴を上げて、ひゅっと喉から空気の音が漏れる。立ち上がろうと試みたのだが、思った以上に強く打ったらしく痛みでまた悲鳴を上げた。ふと、視界が霞んでいることに気づく。膜が張っているせいですべてがぼやけて見える。まさか私、泣いてる……?
 雨なのか涙なのか。頬に流れるそれがどちらのものか、もはやには判別できなかった。腕を動かすことさえ億劫になり、このまま死ぬのかもしれないといよいよ恐怖で呼吸が苦しくなってくる。

「こんなことなら総長の言うこと聞いておけばよかったなあ……」

 数時間前の上司とのやり取りが思い出される。力不足だとを詰ったことは、結果として本当に現実となった。どうして見栄を張って出てきてしまったのだろう。あのとき、くだらないプライドが勝って嫌味を吐いたを、サボはどう思っただろうか。聞き分けが悪いなんて、子どもが駄々をこねているようだと呆れたかもしれない。そのくせ、一人で調査しようと意気込んだらこの有様だ。情けなくて自分でも笑ってしまう。
 海水が徐々に入り込んで、の左頬を濡らしていく。このまま海に呑まれていくのかと思うと、喧嘩したまま別れた上司にもう少し可愛げのある態度を取れたらよかったと後悔した。兄と妹のような、幼い頃の二人に戻れたらよかったのに。

「ごめんなさい……」

 雷鳴がまだ近くで聞こえる。けれど、の体はもう一ミリたりとも動かなかった。


*


 航海士ベポが海上のそれに気づいたのは、嵐の様子をうかがっている最中だった。はじめは不幸な難破船だと見過ごそうと思ったのだが、それにしては人が乗船していた痕跡がやけに少なく、かといって海賊や海軍といった種類の船でもない。小型とはいえ一人用というわけではなさそうだったが、客船や商船の可能性も低いだろう。確認できる範囲で積荷が少なすぎる。
 ベポが乗るポーラータング号は海賊船としては珍しい潜水艦型だった。雷雲とともに発生したサイクロンを遠目にうかがいつつ進行方向に異常がないか探っていたとき、その不審船を見つけたのだ。いつもなら放っておいても問題ないであろう案件だったのだが、動物の勘もといミンク族の勘とでも言うべき何かが働いて双眼鏡から船の様子を覗き見た。結果、その勘は大当たりだったわけである。

「……? あれは、女の子……?」

 マストの真下でぐったりしている人間の女が双眼鏡越しに見えた。しかもどうやら彼女一人だけで、ほかに人がいるようには見えない。ますます何の船かわからなくなってきたベポは、迷った末にポーラータング号の主にして我がハートの海賊団の船長であるトラファルガー・ローに判断を委ねることにした。

「キャプテン!」

 ノックもそこそこに船長室の扉を勢いよく開けたベポに対して、相変わらずクマの酷いキャプテンことローは視線だけで人を殺められそうなその目を向けた。

「騒々しいな。何かあったのか?」
「え、あ、うん。実は――」


 船長が医者なだけあって、ポーラータング号は医療器具が充実している。医務室も一般的な海賊船より品揃えはいいだろう。簡易ベッドに横になっている女を、ベポはローとともに見下ろしていた。いつからあの状態だったのかわからないが、強雨に打たれて体が冷えきっていたし、背中に打撲のような痕が見受けられた。ちなみに全身びっしょり濡れていたので、ローが何の躊躇いもなく彼女の着替えを行った。医者は職業柄男女関係なく裸を見る機会が多いという理由で、医者であるときは性的な衝動は起こらないとか何とか。
 改めて彼女を見ると、小柄で貧弱な印象を受けた。ローから救助命令が下ってすぐに行動したベポたち船員は、崩壊寸前の船に彼女以外の人がいないことに違和感を覚えた。ベポの勘は見事的中したことになるが、しかし見た目から海賊とは到底思えず謎は深まるばかりだ。

「どう思う」

 脈を測りおえたローが徐に立ち上がって質問を投げかけてきた。急激な体温低下で熱を出した彼女は解熱剤を投与されてだいぶ落ち着いている。そこから視線を外さずにローは腕を組んで難しい顔をしたまま考える素振りを見せる。

「どうって、うーん……どう見ても海賊や海軍じゃないってことぐらいしかわからないよね」
「まァそうだろうな。正直おれにもわからねェ」
「所持品も流されてたしね。唯一の手がかりと言えば――」ちらっと視線を彼女から横にいるローの手に向ける。

 このエターナルポースってわけか。
 ローの掌に転がる砂時計型の記録指針はアンバーという名の場所を示していた。眠っている得体の知れない人間にもう一度視線を戻すと、この先彼女が自分たちにどういった影響を及ぼすのか根拠のない不安を覚えた。