嵐の中の邂逅(2)

 記憶を手繰り寄せると、は確かに嵐の中で意識を手放したのだが、目を開けた景色がなぜか見知らぬ天井で戸惑いを隠せなかった。けれど、嗅いだことのある薬品が鼻の奥をつんと刺激する。医務室だろうか、痛みに耐えながらゆっくりと上半身を起こして辺りを見回してみる。やはり知らない場所だった。そうなると、誰かがあの船から運んでくれたことになる。おまけに――

「私の服じゃない」

 意識を失う前に着ていた服ではないことに気づいて呆然とする。瀕死の自分をわざわざ嵐の中から助け出し、怪我の手当をした上に着替えまでと、随分優しい人がいるものだ。どこの誰かは知らないが、今はいないその誰かに心の中で感謝する。
 海の上で救助されたということはここも船だろうと思われたが、その医務室にしては器具や薬品が充実している印象を受ける。は痛む背中をさすりながら、ベッドを抜け出して扉の右側に位置している薬品棚を覗いた。塗り薬や飲み薬はもちろんのこと、あまり手に入らない薬草も常備しているところを見ると相当富んだ人間にでも拾われたのだろうか。
 聞いたことない名前の薬品や見たことない器具に、自分の置かれた立場も忘れて見入っているとガチャリと開閉音がした。誰かが入って来たようだ。

「……」
「……」

 視線が交わってお互い沈黙を守ること数秒。先に口を開いたのは目つきの悪いキャスケットを被った男だった。

「お前、もう動けるのか?」青年がに近づいてくる。目のクマが酷いせいで余計に不安をあおっていた。一歩退いて距離を取ったは「はい」と短く応答すると、助けてくれたことに感謝の言葉を付け足した。
「いや、それは別にいい。んなことよりお前の素性を教えろ。あの船にはお前しかいなかったが、他の奴らはどうした」

 目の前の男をじっと見つめていてはたと気づいた。彼は、サボの義弟と並び「最悪の世代」と称されるうちの一人――ハートの海賊団の船長にして"死の外科医"なんていう恐ろしい二つ名を持つトラファルガー・ローだ。なるほど、それならば医療器具が整っているこの環境にも納得がいく。見た目は恐ろしくともその腕は確かなようで、ある情報によれば頂上戦争で瀕死状態だったルフィを保護し、一命を取り留めさせたのだという。
 だが、今の彼はまるで敵意むき出しで襲い掛かってきそうなほど警戒心が強い。確かには海賊に見えないし、格好から海軍でもない。かといって客船や商船と呼ぶには、一人でいた理由と結びつかない。彼が不審に思うのも無理なかった。

「××島から出た観光船です。ほかの人はみんな流されてしまって……まさか嵐に巻き込まれるとは思ってなかったから」

 の口からは、けれど自然と嘘がこぼれた。相手の様子を窺えば、ぴくりと眉を動かしたまま考え込んでしまった。
 革命軍の立場は、海軍や政府と対立するという意味で海賊と同等に位置するがその活動はまるで異なるために、ドラゴンやサボといった役職を持つ人間以外は表立ってその素性を明かすことはしない。特には、サボやコアラたちと共に各地で諜報活動を行う。小回りがきくので、スパイとして潜入し情報を搾取することもある。別にこの船で何か企むわけではないが、秘密にしておくことに越したことはない。今後の活動をやりやすくするためだ。

「荷物は? あの船には人が生活するような積荷が一切なかったが」
「出航したときはきちんとありました。それも流されてしまったみたいですね」
「……」

 流暢に言葉が溢れ出すを、彼は訝しげに見つめる。あまり納得していないらしい。まあそれもそうか、観光船にしては小型に部類される船だし、一人だけ生存者がいるという事実も信じがたい。何か隠していると思われても仕方なかった。それでも革命軍の一員として、の意思は変わらない。

「あなたはトラファルガー・ローですね。どうして得体の知れない私を助けてくれたんですか?」


*


 女からの質問に、ローは何と答えるべきか迷う。どうして助けたかなんて、明確な理由などなかった。そのまま見過ごすこともできたのだが、ベポの報告にローは突き動かされたように救助を命じた。気まぐれだったように思う。ああそうだ、言うなれば単なる気まぐれ。

「気にするな、ただの衝動的な行動だ」
「はあ……」あまり納得していない様子だ。構わずこちらも質問をする。
「××島からと言ったが、どこに向かおうとしていた」
「確かヘブンズ島というリゾート地に」

 言い淀むことなく答えた女に、またもローは眉間に皺を寄せる。人は嘘を吐くとき身体のどこかしらにサインが出るというが、こいつは違うようだ。ヘブンズ島だと? 冗談も休み休み言え。
 突然予定のないことを指示されて訳も分からないまま不審船から行き倒れた女を助けたことは、少なからず仲間に誤解を与えたようで、まさか知り合いなのかと問い詰められたときはすぐに否定した。お前ら、おれを何だと思ってんだ。
 二十代前半かもしくはそれよりも下に見える女は救助したとき、長い間雨に打たれたせいで体が冷えて高熱を出していた上に背中の損傷がひどかった。手当したとはいえ、数時間ですぐに回復するような怪我ではなかったはずだが、様子を見に医務室へ向かえばなぜか女はベッドから抜け出して歩き回っていた。
 何よりローが最も不審に思ったのは彼女の身分だ。小型の船が"偉大なる航路"を通らないとは限らないが、この時代は海賊がごまんといる。商船や観光船でさえ運が悪ければ海賊の餌食、生きて帰れる保障は絶対ではない。問いただしてみたものの、他の人間は流されたとか観光船だとかのたまった。挙句の果てに、目的地はヘブンズ島だとぬかしやがる。どうやら真実を教えてくれる気はねェらしい。上等だ。

「なら、これはなんだ?」

 こちらの切り札を女の前に提示する。途端、目を見開いた女は手を伸ばしてそれを奪い取ろうとしたので反射的に回避した。加えて伸ばされたその細い手首を掴んで捻り上げる。いかにも弱そうな女だと思って多少手荒い真似をしたが、意外にも俊敏に動ける彼女にいよいよただ者ではない感じを認めざるを得ない。
 苦痛に顔を歪めた女は返してと反対側の腕を伸ばして必死に取り返そうとする。だが、ローと彼女とでは身長差があってかすりもしない。

「お前が素性を明かしたくねェってんなら仕方ねェ。その代わり、この船から出られると思うな」
「なっ……」
「そっちはおれの名を知ってるんだ、当然だろ」女の所持品であるエターナルポースを持ち上げて笑みを浮かべる。唇をかみしめた女はこちらを睨みつけて悔しそうにしていた。さァ、どう出る?
「…………わかり、ました。殺されないだけマシってことですね」
「やけに聞き分けがいいな」
「あなたとやりあったところで勝てるわけないですから」
「賢明な判断だ」

 なおも悔しそうな表情を作る女に優越感を抱いたローは、エターナルポースを握りしめて女に告げる。

「とりあえず新しい部屋に案内してやる。ウチの航海士が後で来るから待ってろ」