揺れ動く心(3)

 いよいよクーデターが目前に迫っているという話を、その真偽は別としてサボたちに伝えたはもう一つ気になることがあるのを忘れていなかった。ずっと頭の片隅にありつつ、なかなか本人を前に聞くことができなかった。しかし状況が状況なだけに、そうも言ってられなくなったのだ。決戦を前に、仲間を疑ったままなど集中できるはずがない。
 その日、は夕食を終えて全員がそれぞれの部屋へ戻ったあと、日付が変わる前にエリスの部屋を訪れた。ノックする手を一瞬だけ躊躇い、しかし首を振って覚悟を決める。どんな答えが返ってこようとも受け止めるつもりで、は彼女がいる部屋の扉を叩いた。
 数秒して中から「誰ですか」と少し間延びした返事が聞こえる。自分の名前を告げたは、了承を得られるとぎこちなく扉をくぐった。
 就寝直前かと思ったエリスは、意外にも夕食のときと同じ格好のままの前に現れた。まるでここに誰かが訪ねてくることをわかっていたかのような――いや、まだ何も聞いていない。よぎった想像を振り払うようには強く頭を振って、案内された部屋の奥へ進む。何か飲むか聞かれたが、やんわり断って近くの椅子に腰かける。
 エリスはどうしてがこんな時間に訪ねてきたのか、大して気にしているふうもなく優雅に自分の手元に飲み物を置いた。香りからしてジンジャーだろうか。私も頼めばよかったな、と場違いなことを思いながらはエリスを見つめる。
いつも動じない彼女は、今も落ち着いた表情での話を待っているようだった。こちらは切り出すことさえ躊躇っているというのに。

「で、私に何か話があるんじゃなかったの?」

 カップに口をつけたエリスは一口すすったあと、そっとテーブルの上に置いてを見据えた。あくまで冷静な姿勢を崩さない彼女は、がここへ来た本当の理由をまるで知っているように見える。それに心なしか、に対する態度が冷たい気がする。

「一昨日の夜――」そこで言葉は途切れてしまい、は俯いた。せっかくここまで来たのに何を躊躇ってるんだろう。いや、ここでエリスの秘密を暴いて「そうだ」と言われたらどうするつもりなのだ。相反する気持ちがを苛む。
「……」
「ううん、やっぱり何でもない。ちょっと不安になっただけ。クーデター実行が迫ってるかもしれないって思ったら眠れなくて……」
「そう? まあはサボさんから任務を外されることが多くて戦場に出る機会減ってるもんね」

 エリスにしてみれば何気ない会話の一部だろうが、の胸中は穏やかでなかった。心がズキズキと音を立てて割れていくように痛む。
 エリスが革命軍に入ったのは十年前であり、よりもちろんあとだったが階級的には同僚である。それでいて同じチームに所属し、同じ上司を持つという所属年数を考えなければ立場も何もかもが一緒だった。にもかかわらず、最近になって任務の量も質も明らかにエリスのほうが”良い”のだからたまったものじゃない。
 明確にエリスへ不満をぶつけたことはなかったが、どうしてという思いは常にあった。同僚として、あるいは同じ年代の友人として競争心がなかったといえば嘘になる。だからこそ、理不尽な決定に自ら本部を飛び出したのだ。
 返す言葉が見つからず困っていると、

「まあでも大丈夫だよ。クーデターというわりに王都の様子は落ち着いているし、王政も乱れてこそいるけど統率力が失われたわけじゃないから、仮にクーデターが起きても私たちで食い止められる」
「そう、だといいけど」
「心配したって仕方ないよ。もう日付変わるし、明日も調査は続くんだから寝よ」

 妙に説得力のある言葉で諭したエリスが、の返事を待つことなく寝間着に着替えようとしたので慌てて視線をそらした。女同士だから気にすることもないのだが、なんとなく見てはいけないような気がして反射的な行動を取ってしまった。
 そんなの可笑しな態度に「なんで逸らすの」と笑ったエリスはいつもと同じ、快活で可愛らしい表情だった。先ほどまでのモヤモヤしていた心が嘘のように晴れていく。
 も笑い返しておやすみと伝える。
 どうかこのまま無事任務が終わることを願って、はエリスの部屋を後にした。


*


 翌日は曇天が広がり、昨日の快晴とは真逆の朝だった。ザアザアと激しく地面を打ちつける音で目が覚めたはゆっくり体を起こしてベッドから出ると、カーテンレースを開けて外を見やった。
 部屋から見下ろせる景色は宿の入口から見て東に位置するため、大通りから狭い路地に入ることになる。狭くて薄暗い路地は治安が悪くなりがちだが、王都では警備の目が行き届くのかスリや恫喝といったことは少ないようだ。とはいえ、奥まった場所には件の酒場や賭博といったガラの悪い店もたくさんあるが。
 支度をして同じように一階へ向かえば、珍しくすでに準備していたサボとコアラが座っていた。エリスの姿はない。どうしたのだろうと思ってきょろきょろしていたのが二人に伝わったのか、「エリスならもう起きてるぞ」と伝えられる。どうやら誰よりも早く起きて朝食を取ったあと、先に食休みをしているのだとか。昨日とまったく同じである。

「エリスが今日もと一緒に組ませてほしいってさ」
「え、そうなんですか? てっきりもう嫌かなと思ったけど違ったんだ。よかった」
「なにかあったのか?」
「そういうわけじゃないんですけど、ちょっといつもと様子が違った気がしたので……でも気のせいだったみたいです」

 サボとなんとなく気まずくなった一昨日から一変、すっかりいつも通りに戻ったは彼からの質問にもよどみなく答える。そもそもサボ自身はあの日の記憶があるのか怪しいので、気まずいと思っているのはだけかもしれないのだ。コアラからの問いに答えが出たわけではなかったが、今は気にせず目の前の任務をまっとうすることに努めると決めた。
 エリスには結局何も聞けないまま翌日を迎えることになった。確かに、夜中に町の酒場に出入りしたことは彼女の――というより、革命軍として予定にないことであり、どんな目的があったにせよ疑わしい行為だ。ただでさえ、酒場に見知らぬ集団が出入りしていると情報があるのだから尚更気をつける必要がある。
 それでも聞けなかったのは、これまで彼女と過ごしてきた十年間があるからだった。一緒に任務をこなし、一緒に成長してきた彼女を証拠もないのに憶測だけで疑っていると突きつけるのは余りにも酷な気がした。
 そうだ、証拠がない。が見たのはエリスが知らない男たちと会話をしていたところ。内容を聞いたわけではないから、それがクーデター計画だとは限らない。普通に聞き込みをしてたってことも――

「どうしたの。なんか顔色悪くない?」
「え?」
「気分悪いの? 大丈夫?」

 随分と考え込んでいたらしく、コアラの顔が近づいての様子をうかがうように傾げる。
 ここに来ること自体がすでに迷惑をかけているというのに、これ以上要らぬ心配をかけるのはの本意ではなかった。
 それにエリスのことは何か起きたわけではない。陰口みたいになるのも気が引けたは、結局二人には黙ったままでいることにした。

「大丈夫だよ、ちょっと緊張してるだけ」
「そっか。でも無理しないでよ? 暴徒化してない場所ではあるけど、何が起こるかわからないのがこの国なんだから」
「わかってる、気をつけるよ。じゃあ私、エリスちゃん呼んでくる」
!」

 宿泊部屋があるほうへ戻ろうとしたを後ろから誰かが強く呼び止めた。サボだ。さっきまで普通に会話ができていたと思っていたが、こうして急に話しかけられるとどうしていいかわからなくなる。
 無視することもできず、階段途中で振り返って「な、なんですか」ぎこちなく答えるのが精いっぱいだった。

「……」
「あの……総長?」

 何も言ってこないサボに戸惑いつつ問いかけたはサボの返答をゆっくり待った。サボがこちらをちらちら見ながら言いよどむ仕草を見せたので、本当にどうしたのだろうと不思議に思い、階段を駆け下りて彼に近づいた。左手を引き寄せられたのはその時だった。
 あ、と思ったときには前につんのめって足がもつれてしまいたたらを踏む。そのせいで正面にいたサボにぶつかったことは言うまでもない。慌てて離れようとしたら制止されて、今度こそどうしたらいいのかわからなくなる。
 "それってサボ君のことをお兄ちゃんじゃなくて、一人の男の子として意識してるからじゃない?"
 なぜか急に昨日のコアラの言葉がリフレインして顔に熱が集まってくる。

「……っ」
、お前――」
「ごめん。行こう……って、もしかして邪魔しちゃった?」

 頭上で響くサボの切羽詰まった声は、しかし階上から聞こえたエリスの声によって遮られた。別に彼女が想像するような甘い雰囲気ではないのだが、サボの言葉の続きが気になることは否定できなかった。サボがどう答えるのかを待っていると、

「いや、問題ねェ。今日もよろしく頼む」
「……」

 まるで何事もなかったかのような振る舞いをする彼に、後ろ髪を引かれる思いでエリスの後に続く。その場にいたコアラもただ見ているだけで何も言わなかった。言えなかったのかもしれないけれど、胸に何かが突っかかる複雑な心境のままは宿を後にすることになった。