交わる運命(3)

 昔読んだ本の中に、「"記憶"とは物事を忘れずに覚えていることであり、記憶時間によって大きく感覚記憶、短期記憶、長期記憶の三つに分類されるものである」と書いてあった。人間の脳には情報を記憶する部位があって、必要なものと不要なものに分けるらしい。必要なことは長期記憶として何十年も記憶することができる。
 しかし、事故などによって脳に障害が起きると、後遺症として一定期間の経験を追想することができない状態に陥ることがあるという。それを医学の世界では"健忘"と呼んだ。事故や病気の後遺症のほか、心因性から来るものもあり、情報を記憶する脳器官の機能が壊れて発症すると考えられているが、はっきりとしたメカニズムはわかっていない。
 だからが十年前に風邪をこじらせて一か月寝込み回復した後、記憶が部分的に抜け落ちてしまった理由に関して以前尋ねたことがあった。周りには高熱のせいだのなんだのとうまくかわされて本当の答えは知らないままだったのだが、同僚のエリスがそれは違うと突然言い出したことでの世界は反転する。
 十年前、自分は風邪を引いて寝込んでいたのではなくアンバーのクーデター未遂事件に関わり、そのとき負った怪我とショックで眠っていたのだという。そして、とエリスは革命軍の一員として出会ったのが初めてではなく、その事件の関係者として会ったのが最初だと、彼女は言った。
 "ここは私とが初めて会った場所なんだから"
 引き金はきっとこの言葉だろうと思う。
 アンバー城に潜入した途端、頭痛が起こり始めたのをエリスは記憶が戻りかけている証拠と言ったがその通りなのだろう。見たことのない光景だったはずなのに、体はきちんと”痛み”で反応を示したのだから。
 そしてエリスのこの言葉。膜がかかった景色が少しずつ鮮明になってくる。あの日、私はここで仲間を――父達を待っていた。
 螺旋階段の先の大きな廊下の陰で待機する自分と、前方からやって来る同じくらいの歳のドレスを着た女の子。たどたどしく歩く姿に同情して助けてあげようと近寄った。けれどそれが大きな間違いだったと気づいた頃には遅くて、は武装した集団の中心にいた――

「まさか、あのときの子どもがエリスちゃんなの……?」
「ようやく思い出した? そうよ、私は革命軍をおびき出すために仕込まれた罠。あの日、が私を助けようとしてまんまと罠に嵌ったってわけ」
「ど、どうしてエリスちゃんがそんなことをしてたの……」

 二人きりの廊下で、あの日を再現するかのようにとエリスが正面から向き合う形になっている。記憶がよみがえった今、頭痛よりも身体の震えのほうが増していた。押し寄せてくる記憶の中に、見たくない――ずっと隠しておきたかった真実がある。
 ゆっくり立ち上がって、改めて彼女を見据える。幼い彼女がどうしてあの場にいたのか、という質問は別に答えを求めていたわけではない。すでに想像がついているし、子どもは境遇を選べない。が知りたかったのは、だからどうして今まで革命軍にいたのかということだ。

「私の名前はマーティン・エリスよ。つまり、十年前の事件の首謀者であるアレスの娘。身分を隠してたのは悪いと思ってるけど、私は私で為すべきことがあったから仕方なかったの」

 そう言って伏せた目には憂いが感じられた。不思議な模様を描く絨毯を睨みつけているようにも見える。
マーティンという名前には聞き覚えがあった。アンバー初日の夜、コアラとエリスが得た情報の中に確かあったはずだ。怪しい集団が出入りしているバーのマスターが聞いた、彼らの話の中にその単語が出てきたという。そうか、マーティンは十年前のクーデターを企てたグループのリーダーで、きっとその残党が今回のクーデターに関わっているということなのだろう。
しかし、エリスが向こう側の人間だとすれば彼女の為すべきことというのはすなわち――十年前の事件の遂行になる。だとしたら、やはり彼女がなぜ革命軍にいたのか説明がつかない。

「でもどうして革命軍に? 為すべきことっていうのは十年前、お父さんができなかったクーデターの遂行なんじゃないの?」
「……そうね。あのクーデターは、の父親であるウォルトがいなければ成功したも同然だった。せっかくの機会をウォルトが潰したのよ」
「それはっ……革命軍には革命軍の目的があるからどうしようもないことじゃない!」

 エリスがクーデター失敗は父のせいだなんて言うから、つい強い口調で言い返してしまった。エリスたちがクーデター遂行を目的としていたように、革命軍には革命軍の成し遂げるべきことがあって行動している。掲げている旗が違うのだから、ぶつかり合うのは当然のこと。それを邪魔者のように扱われるのは不服だ。

「確かにあのとき私たちは敵同士だった。そして計画を台無しにされ、父を喪った私は革命軍を恨んだ。どうして革命軍にいるのかって聞いたけど、もちろん復讐するためよ」

 普段の柔らかい印象から完全にかけ離れたエリスの瞳はもうの知っているそれではなかった。まるで知らない人のようで、けれどこちらが本来の彼女なのかと思うと心が痛んだ。優しく見えていた面は仮面だったのだろうか。復讐という言葉が先の尖った氷みたいに突き刺さる。
 エリスの話では復讐するために事件から一年後にスパイとして革命軍に潜入し、その機会をうかがっていた。そして数か月してと同じチームになったことも幸運だっただろう。彼女はすぐの存在に気づいたが、一方ではまったくわからなかった。潜入するために髪型を変えたり、顔もあのときとは多少異なる。貴族に扮して化粧をしていたことで素顔を知る人はいないはずだからだ。
 しかし、それ以前には事件の記憶がないと後々知ることになる。エリスは絶望した。計画を無下にした男の娘は事件を覚えておらず、記憶がないのを理由に大して傷ついていなかった。それどころか、周りの仲間から蝶よ花よと親が子を可愛がるように大切にされているではないか。
 エリスは自分との境遇の差を妬んだ。アレスが死んだことで仲間も離れていった彼女は、頼れる大人がいないまま孤独だった。復讐に身を焦がし、やっとのことで革命軍に潜入したと思ったら同じ父親を喪ったはずのは記憶がない。立場は敵同士でも家族をなくした悲しみは分かち合えると思っていたのに、それさえ叶わなかった。は確かに父親を喪ったが、クーデターとは関係ない任務で殉職したことになっていると知ったときのエリスの絶望はどれほどだったのか。
 こうして、いつしかウォルトではなくに対して恨みつらみを抱くようになっていった。

は良い身分よね。父親が死んでも、サボさんやコアラさんたちがいて常に守ってもらえるんだもん。挙句の果てに、トラファルガー・ローまでの味方? なにそれ、ふざけてる。私は唯一の家族だったお父さんをなくして独りぼっちになったっていうのに。私にはそばにいてくれる人が誰もいないのに!」
「……っ」

 お前は恵まれている。そう言われている気がした。
 でも、だって。そんなの。私が決めたわけじゃない。私が選んだわけじゃない、のに。けれど、父の姿を見て育ってきた私は革命軍としての自分を誇りに思っている。
 激昂するエリスは怒りが治まらないのかさらに続けて言う。

「でもね、これだけは言える。あんたのせいでウォルトは死んだのよ。都合よく忘れてた事実だろうけど、あんたは自分の手で父親を殺した」
「違う! 殺したなんてそんなっ……」
「違わないわ。だってを庇ってウォルトは死んだんだから」
「やめて、ちがう……ちがうの。あれは、だって――」

 は泣きじゃくる子どものようにひたすら「違う」と繰り返した。けれど心の内では理解もしていた。自分のせいで父が亡くなってしまったこと。がエリスに近づかなければ、もっとうまく事が運んだかもしれないこと。考え出したらキリがない。
 母が死んで、でも父がいてサボがいてくれて。また頑張れる、そう思ったのに――
 父も死んだ。
 のせいで。
 エリスは間違ったことを言っていない。が選択を誤らなければ、ウォルトは死ななかったかもしれない。が人質になってしまったせいで、結局父は殉職した。変えられない事実だった。

「思い出した気分はどう? 私はに同じ絶望を味わってほしくて今回の計画を立てたのよ。サボさん達が気にしてるような黒幕なんていない。ドフラミンゴなんて関係ないの。これは私自身がに復讐するために――っ」

 エリスが最後まで言い終わらないうちに、気づけばは彼女に迫って拳を振ろうとしていた。


参考文献:「記憶の概要」
https://www.sankyobo.co.jp/dickio.html