交錯する感情(1)

 サボとコアラがの持つ電伝虫の位置情報を頼りに目的の場所まで来たとき、想像を絶する光景が目に飛び込んできて一瞬足が竦んだ。見覚えのある螺旋階段をのぼった最上階にいるとコアラが伝えてきた時点で、なんとなく嫌な予感はしていた。当たらないでくれと必死に願ったのも虚しく、サボの目には夥しい赤の中にぽつんと佇む――横たわるの姿だった。
 十年前と重なって見えたのはほんの一瞬で、すぐに現実へ引き戻されるように床に広がる血がサボを一気に不安にさせた。
 駆け寄って傍まで行くと、その量がどれほどのものか突きつけられる。体のどこから出血しているのか、目を凝らしてみれば腹部が大元のようだった。近くに血に染まったナイフが落ちているが、どうやら手の甲にも怪我を負っているらしい。
 微動だにしないの上半身に恐る恐る手を伸ばして触れてみる。今までに感じたことのない冷たさに背筋が凍る思いだった。これではまるで死体みたいじゃないか。

「おい、しっかりしろ! 目ェ覚ませ!」

 揺さぶって意識が戻るよう呼び掛ける。しかし目の前の人間はまったく反応を示さない、事切れたロボットのようだった。抱え上げた上半身からこぽりと嫌な音まで聞こえる。汗が頬を伝って、の体に落ちていく。小刻みに揺れているのはのせいではなく、自分の手が震えているせいだった。
 ――どうしてこんなことになってる?

「やめてサボ君っ……一刻も早く船へ戻って治療しなきゃ手遅れになっちゃう!」
「……っ」
「わかってるでしょう? は今すごく危険な状態だよ」

 憤怒や焦燥でどうにかなりそうだったサボを現実に繋ぎとめてくれたのは、すぐそばにいたコアラだった。転がっていたの電伝虫を拾ったのか、手には受話器を失った電伝虫が握られている。

「くそっ……」やり場のない怒りの呟きをしてから、「すぐに戻るぞ。医療班も呼び戻せ」頭を切り替えての体を抱え上げた。だらりと垂れる左の指先からぽたぽた落ちる血で作られる跡が、かろうじて繋ぎとめている生命の印のように思えて両腕に力がこもる。
 この場にエリスがいないことが一番の疑問だったが、コアラが電伝虫と共に拾ってきた手紙にエリスの署名があったことから何らかの事情で姿を消したと判断した。手紙の内容は船に戻ってから確認するとして、今はの治療が最優先だ。
 サボは足早にアンバー城を後にし、雨の中濡れることも気にせず一目散に船へと戻るのだった。


*


 アンバーに到着してから、ローは不審船の目撃情報や地元の人間以外が深夜に酒場を出入りしている情報を手にしたものの、肝心のドフラミンゴの情報が一切ないことに違和感を覚えていた。
 十年前のクーデターを実行した主犯格はマーティン・アレスだが、その後ろにはドフラミンゴがいたことがわかっている。だからもし今回のクーデターがその残党ならば間違いなく後押ししているのはドフラミンゴだと確信して調査しているのに、肝心のドフラミンゴの情報がどこにも転がっていないのはどういうことなのか。昨日、たちに会って自身が聞き得た情報を流して以降、手がかりがまるでない。だとすれば、自分の見立てが間違っているのだろうか。今回のクーデターはアレスの残党ではないのか?
 調査を始めてから四日目。アンバーに来て初めての雨だった。どんよりとした重たい曇にもくもく上昇していく家々の煙が厚塗りされていき、空はますます鈍色に染まっていく。気分は天気に呼応するように下がる一方だ。
 こうしてなんの収穫もないまま王都を歩いていたとき、前方から走ってくる二つの影が目についた。
 ローはいったん足を止めて確認する。

「あれは革命軍と……?」

 レインコートを着ているせいか見間違いかとも思ったが、フードをかぶっていなかったために見えた横顔は間違いなくつい昨日会話を交わしたばかりの本人だった。サボに抱えられているということは、自分で動けない状態であることと同義だ。何があったのか説明を求めるべく、こちらに向かってくる二人を呼び止めた。
 向こうもローの存在に気づいたのか、歩幅を緩めて減速した。しかし、サボが抱えているの姿を見てぎょっとする。腹部を中心に彼女の身体は血で真っ赤に染まっていた。

「……何があった」
「おれ達にもわからねェ。ひとまずの治療を優先するために一旦船へ戻る」

 どうやら彼らもとは別行動だったようだ。つまり昨日と同じペアで行動していたことになるが、肝心のもう一人の姿が見えなかった。名前はエリス、と呼ばれていたか。
 の前だからということもあって口には出さなかったのだが、彼女は一見と同じ親切で柔和な印象を与えるものの、瞳の奥に冷酷さと野心的な何かを秘めている気がしていた。あれは危うい人間が持つ――例えばドフラミンゴのような、胸の内が読めない人間特有の目だった。
 どうしてこの場にいないのか、それがの怪我と関係あるのか今はわからない。ただ一刻も早く治療をしなければ彼女は助からないだろうということだ。だったら、自分が取るべき行動は一つ。

「治療はおれが引き受けてもいいか? 必ず助けてみせる」


*


 船室の天井はこんな幾何学的な模様だったのかと、どうでもいいことが浮かんでは消えていく。落ち着きのない様子で貧乏ゆすりをしたり、立ち上がってみたり。先ほどから無駄な言動ばかりする上司を見かねてついにコアラが「いい加減にして」と本気で怒ってきたので、仕方なくサボは椅子に座りなおして再び時間が経つのを待つことにした。
 医務室の隣にある仮眠室。治療を買って出たローにすべてを任せることにしたのは、奴の医者としての腕を一応信用しているからだった。死の外科医と呼ばれようとも、二年前に弟のルフィを瀕死状態から救ってくれたことは記憶に新しい。
 どうやらここに上陸したのはローとだけであって、船を仲間に託して自分は目的達成のためにしばらく単独行動を取るそうだ。だから設備として革命軍の船はローのそれより劣るだろうが、最低限のものは揃っているのであとはもう奴の腕との生命力に懸けるしかなかった。
 ローが医務室に入ってからすでに三時間以上が経過していた。その間、サボとコアラはエリスの失踪の理由を知るべく彼女が置いていったとされる手紙――というほどの長さはないが、それらしい文章を綴った一枚の紙を読み終えて、ところがしばらく呆然としたまま何も考えられなかった。
 彼女の言葉通りなら、エリスはアレスの娘であり、に復讐するために今回のクーデター計画を秘密裏に立てて、あえて情報まで流してをこの国に呼び寄せたことになる。詳細は伏せられているが、きっとはすべてを告げられたはずだし、記憶の蓋も開いてしまったことだろう。
 くそっ……。
 握った拳に力がこもる。
 の怪我はエリスとの争いの末であり、クーデターに巻き込まれたわけじゃなかった。コアラからの情報で聞いたことだが、城内にひと気がなかったのは王族や侍従たちは全員革新派の動きを警戒して別の場所に避難をしているからだそうだ。政治活動も今はそこで行っている。道理で周辺の警備が手薄なわけだ。
 結果的に言えば、今回のクーデターはエリス個人が計画したことでなり、ドフラミンゴは一切関与していないし、怪しい集団というのもエリスの雇った連中だろう。まあ首謀者はアレスの娘なので残党といえばそうかもしれないが。
 ともかくすべて彼女がに復讐するために仕組んだことなら、が記憶を取り戻すことは必然だったも同然だ。サボがあれこれ手を回したって、いずれ知ってしまう可能性があったことになる。だとしたらこれまでのサボのやり方はやはり無駄だったのだろうか。忘れているならそのままでいいというのは自分本位であり、の意思を無視した行為になるのだろうか。
 いや――仮にそうだとしても、あいつが笑ってるならそれでいいと思ってきたじゃないか。しかし結果はどうだ。は大怪我を負って、きっと十年前の記憶も取り戻したはずだ。お前のせいで父親が死んだと、エリスに指摘されたらの性格からして否定できず追い込まれる。
 ウォルトが殉職してを任されたときから、自分が守ると誓ったのに。どうしてこんな事態になってしまったのだろう。一昨日の夜、に対して気持ちを認めたばかりだというのに、やはり彼女と共にあることは許されないのだろうか。いっそのこと革命軍ではなく、ましてや海賊でもない"ただの"フローレンス・ヴァン・になるほうが幸せなのかもしれない。
 ふと、そんな考えがよぎってサボは暗くて深い闇の中に放り出されたような心地になった。しかしそれも束の間、仮眠室の扉が勢いよく開いたかと思うと、手術着を身につけたローが玉のように吹き出す汗を拭いながら入ってきた。