交錯する感情(2)

 ポーラータング号ほどではないにしろさすが革命軍の船というべきか、最低限の設備は整っている医務室に三時間前からこもってローは目の前の女の治療に専念していた。手術台に乗せられたを改めて間近で見たとき、レインコートが真っ赤に染まっていて見るに堪えない姿だったが、出血の量からして時間との勝負であることは疑いようがなく作業の手は黙々と緩むことなく動いている。
 一番酷い傷が腹部の刺傷だった。どういう経緯でこうなったのかは本人しか知りえないため聞くことができないが、相当深く刺さっていてむしろあの場で生きていることのほうが不思議な状態だったといえる。いざ手術を始めてみれば、致命傷である刺傷は深く刺さっていたものの幸いなことに臓器をうまく避けて刺されたようで、これが功を奏したのか傷は筋肉や神経が切れている箇所を縫合し、どうにかして塞がった。傷口が感染している恐れはなかったのですぐに処置ができたことも幸いした。
 人間は血液の20%が急激に失われると出血性ショック状態になる。さらにそれ以上失えば生命に危険を及ぼすといわれている。刺し傷が深い場合は刺さったものを抜かないほうが血管を圧迫しているものの出血を防いでくれるので良いのだが、今回の場合はすでに抜かれてしまったために急速な治療が必要だったわけである。現場を見ていないとはいえ、相当血を流したために不足すると思われた血液も同じ型だという革命軍ナンバーツーが分け与えてくれたおかげで繋ぎとめることができた。
 しかし不思議だったのは、あれだけ深く刺したにもかかわらずとどめを刺さなかったことだ。どういうわけか、腹部の傷は致命傷であるのに絶命するほどに至らなかったのは、刺した相手が躊躇ったからだと思われた。あと数ミリの違いで内臓に触れていた可能性を考えるとおかしな話だが、相手ははじめからを殺す気がなかったのかもしれない。いずれにしろ、彼女から事情を聞くまで真意はわからないままである。
 縫合手術がおわってバイタルサインを確認する。呼吸は正常値にはまだ遠いが、このままいけば戻ると考えていいだろう。傷跡は残るにしても普段見えない位置だ、大きな問題ではない。問題があるとすれば――

「記憶のほうか」

 意識のないをふと見て思う。アンバー城のほうから出てきたところをみると、彼女はきっと城内にいたのだろう。十年前の事件はローの知っている範囲で、少なくとも城内はクーデターの実行場所の一つだと認識している。その中に彼女が飛び込んでいったのはどんな理由があるにしろ記憶の引き出しを開く原因を作ったのではないかと思われた。
 健忘には種類がある。事故や病気といった身体的な異常によって発生するもの、トラウマやストレスといった精神的な異常で引き起こされるもの。彼女の場合、十年前の事件で父親を失った悲しみや苦痛からくる心因的要素が原因だ。
 外傷的体験後、すぐに記憶障害が生じる場合もあるし、数日あるいはそれ以上かかることもある。そして失った記憶はすぐによみがえることもあれば、年齢を重ねるごとに取り戻すこともあったりと人によって様々だ。
 治療として、薬物療法が記憶を取り戻す手助けとなるがは事件を忘れたまま十年という時を過ごしてきた。周りから記憶がないままでいいと判断されるのはいいことなのか、ローにはわからない。しかし外傷体験をもたらす環境から離れることで記憶が回復する場合もあるのは確かだ。とはいっても、革命軍にいる限りなかなか難しいだろうが。
 そういうわけで、がもし記憶を取り戻すとしたらトラウマになった体験の内容を示唆されたり、刺激したりすることでふとした瞬間に記憶が再生されるということが往々にしてある。まあその場合、感情が乱れて極度の不安を引き起こす可能性もあるのだが。

「……なんでおれがこんなこと」

 ぼやいてから、ローは自身の行動を振り返って"らしくない"ことに気づく。
 医者である前に海賊でもある自分が、たかだか一人の女に入れ込むのはどうかしている。出会って間もないというのに、一体彼女に何を求めているというのか。
 コラソンのためにドフラミンゴの暴走を食い止め、潰すことが生きる意味である自分に、人として愛情だとか慈愛といった感情はもう必要ないものだと思っていた。なにせ自分に慈愛を与えてくれた恩人はもうこの世界に存在しない。孤独でいることには慣れた。同じ痛みを分かち合うなど馬鹿げているとさえ思う。
 そう思うのに――どうして目の前の女を見捨てられないのだろう。早く目を覚ましてくれと願わずにはいられないのだろう。

「らしくねェ……」

 今度は声に出して自分を否定する。自嘲するように薄笑いを浮かべて誤魔化すも、声に出してみてその想いにはっきり気づいてしまえばもう否定しようがない。期間が短いだとか、助けた理由だとか。細かいことを気にして見ないふりをするのは終わりにする。
 あの日、寄り添ってくれたに心が吸い寄せられていったのは間違いなかった。孤独な自分が泣けない代わりに、あいつは涙を流してくれた。欺瞞に満ちた世界で生きてきたローにはそれがひどく神聖なものに見えて、はじめは躊躇いが生じた。どうしたって今の自分が取る行動はすべてコラソンの本懐に帰結する。似ても似つかない境遇の彼女に、どう反応していいのかわからなかったから無愛想な態度で済ませてしまったが、内心はどこかで安堵していたのだ。まるで味方が現れたかのような――それは、船長であるトラファルガー・ローの仲間とはまた別の線上にいる唯一の"何か"だった。
 こみ上げてくる衝動を抑え込むようにして、ローはの左手に巻かれた包帯を軽く撫でた。腹部のほか左の手の甲にもナイフで刺した傷があり、こちらもある程度の深さまで刺さっていたが筋や神経は傷ついていなかったおかげで止血するだけにおさまった。

「あとはこいつの体力次第だな」

 ひとまずできる範囲の処置を終えたローは結果を報告すべくサボたちのいる隣の部屋へ移動することにする。医務室を出る直前、ちらりと振り返って眠るの姿を見つめながらローはもう一度彼女の目が早く覚めるように祈った。