瞼の裏の懐かしい記憶

 あれは確か、サボに対して心を開いてから数か月経った頃だった。
 任務でとある島に来ていた革命軍は各チームに分かれて行動していたのだが、サボと一緒にいたは森の途中で迷子になってしまった。慣れていない森の中、歩くのが遅かったのせいで仲間とはぐれてしまったのである。
 知らない島の慣れていない森の中。足が竦んで不安になるのは当然のことだった。先ほどからずっと黙ったままのサボの背中が怒っているような気がして余計に気分は落ち込んでいた。

「サボくんごめんね」

 怒ってる? と、続けてちらっとサボのほうに視線を向ける。いつもならがうるさいと注意するくらい話しかけてくるのに、今日は全然それがないからこちらとしては仲間とはぐれたことに怒っているのではないかと勘繰ってしまう。
 の問いかけに歩を緩めて振り返ったサボは、しかし柔らかい表情で「別に怒ってるわけじゃない」と答えたもののすぐさま浮かない顔して再び歩き出した。トレードマークの帽子となぜか常に持ち歩いている鉄パイプが静かに揺れ動く。自分に怒っているわけじゃないなら、彼の不機嫌な態度は一体なにが理由なのだろう。ますますわからなくて、サボの上着の裾を掴んで引っ張った。

「でも……やっぱりいつもと違うよ」
「……」
「本当にどうしたの?」

 逆に心配になって問うと、相手は答えようか答えまいか迷っている様子を見せてから渋々口を開いて「……ってんだ」何かをぼそっと呟いたのだが、最初のほうが小さすぎて聞き取れなかった。「え、なに」と聞き返して耳に手を当てて顔を近づけた。

「だからっ……腹減ってんだよ!」

 あ、怒った。ものすごい剣幕でに迫ってきたかと思ったら、不機嫌な理由がただの空腹だったなんて拍子抜けだ。確かに昼食をとってから数時間経っているし、歩いてばかりだから無理もない。
 そういえば、サボは華奢な体型をしているようにみえて実は筋肉が結構ついていたりするのを思い出しては思わずクスッと笑った。あの小さな体にいつもたくさんの食べ物を詰め込んでいる姿を思い出したからだ。食べ盛りなのだろうけど、同じ年頃のメンバーと比較してみてもサボは明らかに消費量が多い。
 そんなに大きな声で笑ったつもりはなかったのに、どうやらサボの耳には届いていたらしい。睨みつつ笑うなと不貞腐れた。不機嫌さをもう隠そうともしない態度に苦笑いしてはどうしたものかと悩むが、ここが森だということに気づくと「そうだ!」良いアイデアがひらめいたときのような興奮を抑えられない状態で森を駆けていく。
 いきなりの行動に驚いたサボが叫び声をあげつつ慌てての後を追う。なんだよ急に、と文句を言いながら渋々ついてくるサボに見せびらかすようにして手にしたものを広げた。しかし案の定、彼は変なものを見る目で訝しげにそれを凝視する。

「……なんだこれ」
「これね、ヤマボウシっていうの」
「ふうん。で、そのヤマボウシがどうしたんだよ。まさか食えるってんじゃあないだろ?」
「そのまさかなんだよサボくん! これ生食で食べられる果実で有名なの」
「え! そうなのか!?」
「わたし、昔から植物が好きでいろいろな本を読んでたから間違いないと思う。お腹空いてるんでしょ、甘くておいしいよ」

 はい、と彼の手のひらに赤い実を乗せて食べるよう促す。まじまじと見つめながらどうにも納得のいかない顔で観察する姿は、得体のしれない何かに警戒心をみせる小動物を思わせた。らしくないサボのそんな姿にやっぱりは笑ってしまう。けれど、また怒られてはかなわないので口元を押さえて必死に隠す。
 ようやく食べる気になったのか、恐るおそる口に持っていって――ぱくり。一気に入れたかと思うと、そのまま噛むこと数秒。固かったサボの表情がみるみるうちに緩んで、ついには笑顔になった。

「なんだこれ、うめェ!」

 食べても大丈夫なものとわかった途端、サボはヤマボウシをぱくぱく口に入れていく。
 ヤマボウシは赤くて丸い果実になるのが特徴的で、本来は庭に植えられることが多いため森の中で見つけられたのは偶然だろう。木の実といっても、すべてが食べられるわけではないし、中には毒をもつ植物もいるので気をつけなければならない。小さい頃、植物図鑑が好きで父と一緒に読んでいた本の知識がまさかこんなところで役に立つとは思わなかったが、サボの喜ぶ顔を見ては胸の奥がきゅんと甘く疼いたのを感じた。
 すっかりヤマボウシの果実を気に入った彼はおかわりとでも言いたげにに向けて右手を突き出してくる。しかしいくら食べられる木の実とはいえ、食べすぎはお腹を壊す原因になるからとは首を横に振った。
 もう食べられないとわかったサボはつまらなそうにちぇっと舌打ちしたかと思うと、仕方なく街のほうを目指して再び歩き出す。その少し元気になった背中を見て、可笑しいなあとまたもや笑いそうになるのをこらえた。
 怪我していたサボをドラゴンが連れてきたのは半年以上前のこと。打ち解けるまでに紆余曲折あったものの(それは多分にのせいだが)初めて見たときからなんとなく、子どものようでいてどこか大人っぽい雰囲気をまとった男の子という印象があった。三つ離れているだけだというのに、何でもすぐにこなしてしまう彼が羨ましくもあり、正直妬ましく思うこともあった。しかしそれ以上に面倒見の良いサボのことを、兄弟姉妹のいないにとって"兄"のような存在に思える日が来ることはごく自然な流れだった。
 だからこうして無邪気に食べ物にがっつく姿は彼の貴重な年相応の姿といえる。笑ってしまうのは失礼かもしれないが、には身近に感じられて少し……かなり嬉しいことなのだ。
 日が暮れる前に街へ出なければ危険だと考えた二人は、やや急ぎながら足を踏み出す。東西南北どちらを見ても木に囲まれた同じ景色であるため、街へ抜ける方角がわからないかと思いきやどうやらサボにはわかっているらしい。こっちだ、との手を引いてぐんぐん進んでいく。
 森の中は、子どもだけで移動するには危険な場所だ。それも勝手知ったる森ならともかく任務で訪れた初めての島ならなおさら。ところが、サボには森が庭のように見えるのかどこに向かうべきかわかっているみたいに、迷うことなく足を進めているから不思議である。理由を聞いても「さあ」と言うだけで、謙遜しているのか本当にわからないのかどちらなのだろう。
 でもは知っていた。サボが連れてこられたとき、彼にはそれ以前の記憶がないことを。だからもしかしたら、革命軍に来る前に森の中で生活した経験があるのかもしれない。そんなふうに思っている。
 どれだけ歩いただろう。木々の隙間からのぞく太陽の光がオレンジ色に見え始めて、体力バカのサボもさすがに疲れてきたらしく微妙に歩く速度が落ちてきた。そしてようやく二人の視界に街が見渡せたとき、あと少しのところで事は発生した。

「森ん中にカモがいるっていうから来てみれば、ただのガキじゃねェか」

 たちの視界を遮るように飛び込んできたのは、裸の上半身から直接シャツを着こんでチャラチャラ宝飾品を身にまとった、いかにもなチンピラ風情の男たちだった。ひと際輝く大きな宝石をぶら下げて集団の中央に立ち、たちをガキと言い放ったのがリーダーだろう。宝飾品は盗んだものに違いない。いわゆる盗賊の類だ。

「すんませんアニキ。遠くからだったもんで」
「ガキじゃなんの足しにもならねェが、まあ売り飛ばせばそれなりの金になるか。おいお前ら。痛い思いしたくなきゃ大人しくおれたちの指示に従え」
「誰がお前らなんかに屈するか!」

 間髪入れずにサボが反発して鉄パイプを構える。臨戦態勢を整えて戦う気満々の彼に、も同じようにして身構えた。さっきは仲間とはぐれるなんていう失態をしたけど、ここではちゃんとサボの役に立たなくちゃ。これ以上迷惑かけるなんて嫌だ。

「ガキの分際で調子に乗るなよ」

 サボの言葉が癇に障ったのか、男は腰に下げていた刀を鞘から抜いてこちらに振りかざしてきた。
 とっさの行動だったと振り返ってみればそう思う。今度こそという想いが強く働き、どうしてもサボを守りたくては彼を庇うように立ちはだかり、壁となった。それでも怖くて目をつむったのだけれど、実際には刀の切っ先がの頬をかすめただけで大した痛みはなかった。
 つつ、と切れた頬から血が流れていく。右手でその場所を確かめるようになぞってみれば当たり前だが手が少し赤く染まった。大したことないな、そんなふうに思ってサボを振り返ろうとした刹那――ものすごいスピードで何かがを横切って、気づいたときには盗賊たちとサボが応戦していた。
 刀と鉄パイプのぶつかる金属音が響く。ここから見える限り、彼らは最低でも十人ほどいるがサボは数などものともせず次から次へとなぎ倒していく。日々の鍛錬の成果だろうか、前より動きが俊敏で無駄がない気がした。逆に子どもだと思って油断していた盗賊はサボの鉄パイプさばきに翻弄されて、なかなか反撃を仕掛けられないまま罵倒の言葉が森の中にこだまする。
 なんだこいつ。ただのガキじゃねェ。クソ。待て、見逃してやる。
 が動くより早く、サボが相手をねじ伏せて気づけば周りには気を失った盗賊の姿があちこちに転がっていた。なんてことだろう。大した輩ではなかったにしろ、大人十人相手にサボはたったひとりで片づけてしまった。との力の差がここまで広がっているとは思いもよらなかった。
 唖然とするをよそに、仕留めた盗賊に一瞥をくれてからサボはくるりと振り返ってこちらにずかずか向かってきたかと思うと、「おい、なに考えてんだよ!」いきなり罵声を浴びせてきた。
 突然のことに、は何も返せないまま戸惑いの表情を作って立ち尽くした。

「あいつら刀持ってたんだぞ! 戦いに慣れてねェくせにおれの前に立つな!」
「で、でもっ……」
「でもじゃない。おれは頼んでない」
「……っ」

 おれは頼んでない。
 その言葉が重く響いてショックを受ける。
 だって迷惑をかけたくなくて、今度こそはサボの役に立てるようにと思って行動したのに。そんなふうに言われたら、じゃあどうすればよかったんだろう。ただでさえ、歩くのが遅くて仲間とはぐれてしまったことに負い目を感じていたのに。これ以上サボに嫌われないためには、ああするしか方法が思いつかなかった。
 頬以外、どこも怪我をしていなのにじくじくと胸のあたりが痛みだして、とうとうは声を上げて泣きじゃくった。確かにはサボより弱い。同じ革命軍に所属していながら、圧倒的に彼のほうが力もついてきてその上、効率の良い賢い戦い方ができる。けれど、共に闘う仲間を守りたいと思う気持ちはそんなにいけないことなのだろうか。もうには何が正しいのかわからず、こんなふうに泣いても相手を困らせるだけだとわかっていながら涙を止めることができなかった。

「ご、ごめん。泣かせるつもりじゃなかったっ……ただ――」
「……?」

 サボの前で大泣きしたことがなかったから驚いたのだろう。慌てふためきながら「泣かせるつもりはなかった」と弁解してきたサボは、しかしまだその続きの言葉があるようで口をもにょもにょ動かしていた。不思議に思って首を傾げたまま、は彼の言葉を待つ。泣かせるつもりじゃなかったのなら、どんなつもりなのだろう、と。
 必死に言葉を探しているのか、「あー」とか「んー」とか「つまり」とか意味のない呟きばかりを繰り返しては頭を掻いている。やがて決心がついたのか、瞳の奥が真剣味を帯びてをまっすぐ見据えるとおもむろに口を開いた。

「おれは守られるんじゃなくて守りたいんだ。がおれを大事にしてくれてるようにおれも大事、だから……」

 のことが。
 付け足したように言われた言葉が、じんわりと心のひだに触れて染みわたっていく。ゆっくり噛みしめてその意味に気づいたとき、切ないようなそれでいて温かい何かに包まれたような感覚に陥った。
 はサボが大事で、サボもが大事。その事実が、嬉しくて恥ずかしくてこそばゆい。はもじもじしながらサボの名前を呼ぼうとした――しかし、先にサボが言葉を重ねる。

「だからもう、二度としないでくれ」

 十歳のサボが懇願するみたいに必死な表情で言うから、はただ頷くことしかできなかった。


*


 見たことのない草原に、は独りぽつんと立っていた。どこまでも広がっていて先がわからない。そもそも終わりがあるのかもわからない場所だった。でも、記憶はきちんと残っている。
 私はエリスと争っていて彼女が振りかざしたナイフを取り上げたが、もう一つ隠し持っていたナイフで腹部を刺されて意識を失った、はずだ。だとすれば、ここは死後の世界なのだろうか。私は刺されてあの場で息絶えてしまったのだろうか。わからなかった。
 とはいえ、十年前の記憶がよみがえったことで、ほかにも懐かしい思い出が次々にの脳内を駆け巡った。今みていた記憶は十二年前。サボと出会ってから一年と経っていない、けれど本物の兄妹のように仲良かった頃だ。あのあと二人で街まで走って向かいウォルトたちと再会できたが、こってりしぼられたことは言うまでもない。ほぼのせいにもかかわらず、サボは言い訳ひとつせず一緒に怒られてくれたことも覚えている。
 そして同時に気づいたこともあった。
 サボがどれだけ自分を大切にしてくれようとしていたか。今思えば、「二度としないでほしい」と言われたあたりから常にの前に立ってくれていた気がする。守られるのではなく守りたいと言ってくれた彼は、実際行動で示してくれていたのだ。
 その二年後、が事件の記憶をなくしてから彼のそんな優しさに気づかず自分勝手に行動してきたことに今更ながら気づいて後悔し始めていた。どうしてわからなかったのだろう。サボはいつだって、を一番に考えてくれていた。だから、危険な場所も任務も無理やり遠ざけようとした。"足手まとい"なんていうもっともな理由をつけて。
 きっとそれは、彼なりの守り方だったのだろう。わざと厳しく接して、嫌われてもいいとさえ思っていたかもしれない。

『どうして忘れてたんだろう……』

 呟いてから、はもう一つの事実に気づいて苦笑いした。
 ああ、なんでこんなときに気づいてしまったんだろう。できることなら、もっと早く。せめてコアラに問われた時点ですぐに気づいていればあるいは――
 私、総長が好きなんだ。だから、役に立ちたいし認めてもらいたい。守られてるばかりじゃ嫌なんだ。胸を張って堂々と隣に立っていたいから。"妹"はもう、やめたい。
 ぐるぐると湯水のように感情が溢れ出しては涙を流した。サボへの想いも、革命軍としての人生も。やり残したことがたくさんあるのにどうして……。
 まだ、死にたくない。