どっちつかずの想い

 三時間以上にも及ぶ手術が無事終わったことをローが知らせに来た。曰く、あとはの体力次第だというから早く目を覚ませと隣の医務室にいる彼女に向かって念を送る。
 あれだけの血を流して生きながらえたということは、発見が早かったのかもしれない。サボたちが駆けつけたとき、が倒れているだけでエリスはいなかった。二人が争ってからどれくらい経ったのかわからなかったが、不審な電伝虫の通信のおかげですぐに事態の異変に気づくことができたのは不幸中の幸いといえよう。
 空いていた椅子に腰を落ちつけたローは安堵のため息をつくと、「どうしてこうなった」と事情の説明を求めてきた。当然といえば当然のことで、彼には手術をしてもらった恩があるし黙秘する理由もないので、サボは教会の調査中に起きた無言の通信から説明を始めた。
 途中コアラがコーヒーをいれてくると言って仮眠室を出ていったので、部屋にはサボとローの二人だけになる。別に気まずいというほどでもないが、腹の内が読めない上にのこともあって妙に落ち着かない気分だった。彼女がローの船にいる間なにを話しただとか、十年前の事件をどこまで知っているのかとか。
 正直に言うなら、が捕虜になった時点でばらされる可能性を考えていた。ローには黙っている義理もないし、敵ではないにしろが盗みを働いた(未遂に終わったが)ことでこちらに不利な条件を突きつけてくる可能性は否めない。医者といっても所詮は海賊、目的のために手段を選ばないこともあるだろう。
 しかしサボの心配をよそに、どうやら彼は事件のことをに話していないようで、それはアンバーに到着してからのの態度を見れば一目瞭然だった。ローにとって重要なのはあくまでドフラミンゴへ繋がる情報であり、のことはさほど気にしていない様子――だったはずだが。

「つまり、あの女がとやり合ったってことか」
「多分な。おれも実際見たわけじゃねェから詳細はから直接聞くしかないんだが、エリスから書き残しがあったし間違いないだろう」
「なるほどな。どうりでドフラミンゴの情報がないわけだ」

 合点がいったふうに納得したローは事の成り行きを今一度確認しているのか、独り言をぽつぽつ呟きながらしばらくそのままだったが、やがて我に返ったように問いかける。

「で、女はどこへ消えたかわからねェのか?」
「ああ。けどここへは戻ってこないとも書いてあるから二度と会うことはないはずだ」
「一番驚いたのはアレスの娘だったってことだな」
「おれ達も気づかなかったよ。九年も一緒にいたのに、だ」

 サボは自らを罵る意味で自嘲気味に笑った。
 復讐のために革命軍に入り、その機会をうかがって約十年。エリスは思いの丈をにぶつけた結果、ある意味で復讐は成功したのかもしれない。
 と同じで父を失った彼女が、どんな想いで革命軍の門を叩いたのか。そして事件の記憶をなくしたを見てどう思ったのか。サボとは異なる境遇な分、彼女の気持ちを推し量ることは容易ではないが、きっと愕然としただろう。どうしてだけが事件のことを忘れて生きているのか、と。
 エリスのいう"復讐"が何を意味しているのか今となってはわからないが、姿を消したところを見るとに記憶を取り戻させることが目的だったのではないかとサボは考えていた。事件のショックから記憶をなくしたに一番効果的な方法で――こう表現するのも不本意だが、傷つけることができる。自分の父親は任務中に亡くなったと聞かされているが、実は自分と密に関わった事件で、しかも自分を庇ったせいで亡くなったとエリスから聞かされたとしたら。同じ任務中に亡くなったといっても意味が変わってくる。そして、それがの心にどれほどの傷を与えるか、エリスはわかっていた。
 確信が持てるほどの自信はないにしろ、ほぼ正解だとみていいだろう。腹部の傷も、もしかしたら自ら刺されにいったのかもしれない。贖罪の意味を込めて。
 エリスと九年、共に任務をしながら誰一人その痛みをわかってやれないまま彼女に復讐の機会を赦してしまった。おまけにきちんと事情を追及する機会さえも永遠に失ったわけである。参謀総長ともあろう自分が情けない。しかし逆に言えば、それほどエリスはこのチームに溶け込んでいたともいえるわけで。にも同性の友人ができて楽しそうにするところを何度も見かけた。
 考えれば考えるほど気が滅入るような出来事にサボは頭を抱えた。にしたことは到底許し難いが、仲間だった頃のことも忘れてただの罪人にするには時間を共にしすぎた。

「おれとしちゃあ、あの女は腹の奥に何かを隠してる末恐ろしさを感じたがな。だが腑に落ちねェことが一つある。あいつの腹部の傷だ」
「……どういうことだ?」
「確かに傷はかなり深い。内臓に触れてなかったのが奇跡といえる。だが、それでも命を奪うには足りねェ傷だ。復讐を考えていたなら――殺してもいいはずだろ」

 ローはあえて直接的な言葉での刺された傷について触れてきた。
 "殺してもいい"
 確かにそうなのだ。もしエリスが本当に復讐するためだけに革命軍に来たのなら、こんな自ら罪を認めるようなことを残す必要はなかったし、いくらでもやりようはあったはずだ。の記憶を呼び起こすためにアンバーへ連れてくることが必須だったとしても。元より彼女はを殺す気などなかったのではないか。
 確認しようもないが、サボにはそう思えて仕方なかった。

「まあ……だとしたら、綿密に計画を立ててた割にあっけない気もするな」

 司教の不在を利用してアンバーという国を再び混乱に陥れ、地方には内乱まで起こさせたのだ。エリスがドフラミンゴと無関係に今回の計画を働いたとして、どういう類の手下を焚きつけたのだろう。そもそも革命軍にいながらどうやって計画を立て、連絡を取り合っていたのか。専用の電伝虫を持っていたのだと思うが、だとしたらやはり彼女はアレスの娘であると言わざるを得ない。
 敵の本拠地で堂々とそんな計画を立てられる度胸と技量。と年齢が変わらないが、ローの言葉通り末恐ろしい女だったというわけだ。
 姿を消したなら一応彼女の中で目的は達成されたと判断できるし、ドフラミンゴと繋がっている可能性は否めないにしても今すぐ彼女とどうこうなるとは思えない。「とはいえ問題はあいつの記憶のほうなんだが……」サボは、手術中ずっと胸の内にため込んでいた懸念を吐露した。

「取り戻してるとみてまず間違いねェな」否定してほしかったのだが、ローはあっさりサボの希望を打ち砕いた。いや、自分でも取り戻しているだろうと結論づけたのだから否定も何もないのだが。
 お互い沈黙したまま、時が経つこと数秒。仮眠室へコーヒーのカップを乗せた盆を抱えたコアラが戻ってきて、「ちょっともお、二人してそんな暗い顔をにさらすつもりなの」と開口一番、辛辣な言葉を投げかけた。相変わらず手厳しい部下である。
 結局、コアラが戻ってきたことでローとの会話は自然と打ち切る形になり、本当に聞きたかったことはとうとう口に出すことができないままサボは仮眠室を後にした。


*


 暗闇の中、そっとベッドに近づいて横たわる人物の輪郭を捉えようと目を凝らした。飾りばかりの頼りない常夜灯がゆらゆら揺らめいて余計に不安を煽られている気がする。別に悪いことをしているわけではないのだが、とっくに深夜を回って誰もが寝静まっている頃に、女の寝床へコソコソ出向くというのはさながら夜這いしているかのように思えて背中に冷たい汗が流れる。
 の手術が終わってからさらに九時間が過ぎ、経過観察と言われてその日はこのままアンバーにとどまることになった。ローの話では呼吸も安定してきたというから意識が戻るのも時間の問題だろうと考えたが、どうにも気になってサボは結局こうして彼女の眠る医務室をひとり尋ねてきたのである。
 最新設備とまではいかないものの、ある程度の医療機器は備えている革命軍の船はこうした重傷者が出た場合にでもすぐ対応できるようになっている。今回はトラファルガー・ローという優れた腕の医者がたまたまいたことでは命拾いしたが、もしも見つけるのが遅かったと思うとサボは想像するだけでも怖くて仕方なかった。
 ウォルトとの約束を一度だって忘れたことはないし、自分なりのやり方でを守ってきたつもりだ。疎まれようとも嫌われようとも、の笑顔を守ることがサボのすべてで、それ以上望むものなんて何もない。そう思っていたはずなのに――
 離れていくかもしれないという不安がかすめた途端、どうしようもない焦燥感を覚えて意味もなくの顔を見に来てしまった。

「ごめんな、……」

 闇に目が慣れてきたことで見えるようになったの頬に手を這わせて柔いその肌をするりと撫でる。
 彼女がどんな選択をしようと背中を押してやりたい気持ちはあるのに、自分の元を離れることは許さないという身勝手な想いもまたサボの中に存在していた。
 早く目を覚ましてほしいと願っている反面、ここに留まってくれるなら覚まさないでくれとも思う。矛盾した気持ちがぐちゃぐちゃになってサボの心を蝕み、彼の孤独な夜は更けていく。