めぐる記憶(1)

 どんなに進んでもやっぱり草原の中から出られないまま、はただひたすら歩き続けていた。実態のない存在だからなのか、先ほどから誰にも会わない。ここがいわゆる”天国”のような場所なら、自分はやっぱりあのとき死んでしまったのだろうか。アンバー城で誰にも見つけてもらえず、虚しく死体が放置されたまま。サボやコアラ、ローにも会えぬまま。
 しかしどうしてもそう思えなかった。根拠はない。ただ、あのときエリスは確かにを刺したのだが、とどめを刺したにしては場所が微妙にずれていたように思うのだ。もちろん偶然という可能性も十分にあり得るので確証はないけれど。
 意識を失ったにあのあとエリスがどうしたのか知る由もないが、きっともう会うことはないのだろう。復讐することがすべてだと語った彼女に、が言えることは何もない。記憶のなかった自分が何を言っても無駄だし、慰めにもならないだろうから。
 近しい存在の同僚ができたと思っていた。任務以外にも、お洒落の話や立ち寄った島の流行りものに美味しいご飯。エリスとはある意味、コアラとできない話をたくさんした思い出がある。任務で失敗したことやうまくいったこと、上司の愚痴。苦楽を共にして仲間意識が芽生えていった数年前。そうしたすべてが彼女にとって本当に無意味だったのだろうか。
 もちろん、疎ましく思うことも少なからずあった。上司であるサボが、任務でエリスばかり採用するから――より後に入った彼女が選ばれてどうして自分が選んでもらえないのか。悔しくて、でも悔しいとは言えずに一人で泣いた夜もある。そんな苦い思い出も、今はもう懐かしく思えた。

 相変わらず景色は同じまま、は尚も歩き続ける。どこに向かっているのか、はたして出口はあるのか。そして自分は生きているのか死んでいるのか。ふと、は自分の左の指先を右手で触ってみた。きちんと感触があって、それは生きていたときと同じように感じる。
 不思議な感覚だった。ふわふわしているようで、けれど地に足がついている。夢の中にいるように思えて、けれどしっかりとした感触がある。
 いつまで続くのか急に不安に駆られては立ち止った。
 ずっとこのままだったら? サボやコアラ、革命軍のみんなにも会えないままぷつりと人生を遮断されたのかもしれないと思ったら、言い知れぬ不安が一気に押し寄せてきた。それと同時に、これは罰なのかもしれないとも思えて自然と受け入れる心づもりができていた。
 事件の記憶がすっぽり抜け落ちて、父の死やエリスのこと、そしてサボの遠回しな優しさにも気づかないままのうのうと生きてきたへの罰。もしそれが何もない誰もいないこの場所でさまよい続けることなら、は甘んじて受け入れようと思う。サボたちに会えないのはつらいけれど、エリスの痛みに比べたら――

『――!』

 無音だった草原に、ふと誰かの声が響いた気がしては顔を上げて辺りを見回した。
 しかし景色は先ほどと変わらない。人の気配もない。じゃあ今のは一体なんだったのだろう。得体のしれない場所にきて聴覚がおかしくなってしまったのだろうか。
 は声のするほうに向かって歩く。でも全然届かない、むしろ遠ざかっていくようで無意識に手を伸ばしてしまう。ついには聞こえていた声までもが届かなくなって、また独りぼっちになる恐怖からは走り出す。

「まって、いかないでっ……」

 声を発した直後、伸ばした手がぐっと見えない力によって引っ張られた。その衝撃でつんのめったは、慌ててその場で踏ん張ろうと足に力を入れる。しかしその力も虚しく、は地面に向かって倒れた。体をしたたかに打ち、痛みに顔を歪めた。
 その衝撃で草が口の中に入ってくる。不思議だった。死んだかもしれない世界で、は草の苦い味と感触を体で感じ取っている。やっぱりおかしい。ここはあの世でもなければ、かといって生きていた世界でもない。ならばここは――



 ――え?
 今度ははっきりと自分の名を呼ぶ声が聞こえ、は顔を上げた。やはりそこには誰の姿もない。けれどにはわかる。この声は、会いたくてあいたくてたまらない上司――サボの声だ。どういう原理なのかわからないが、空のほうから聞こえる声は最初くぐもっていたのに次第にクリアになって、まるですぐそこに彼がいるような錯覚を起こしていた。
 立ち上がって、もう一度周囲を確認する。やはり景色は変わらない。でも確実にサボはを呼んでいる。

「総長っ……どこに、いるんですかっ」

 の悲痛な叫びは、大草原の中に虚しく響いてすぐに跡形もなく消えていった。


*


 が泣いている気がして、サボは彼女が眠る医務室に立ち寄った。術後に経過観察と言われてから三日、彼女は一向に目を覚まさなかった。毎日定期的にバイタル測定をしにくるローの見解によれば、体調面では特に問題ないというのできっと精神的な部分で何かしらに負荷を与えているということになる。
 それが何なのか、ある程度の想像はついていた。信じていた者に裏切られ、そして自分が苦しめている元凶だったと言われれば心が壊れてもおかしくない。記憶を失っていたとはいえ、結果的には同じことだ。ましてや、痛みを抱えて生きてきたほうと知らぬまま生きてきたほうとでは事件の重みも異なる。父親を亡くしたという同じ境遇にあるとエリスだが、革命軍の仲間に囲まれて生きてきたと違ってアレスの死とともにグループが霧散した途端エリスは孤独になったのだろう。
 いろいろな意味で二人は似ているようで異なっていた。今となっては確認しようもないが、きっとエリスの心の叫びを聞かされたは打ちひしがれたことだろう。やるせない、と思う。

「あとは、ウォルトさんがを庇ったことか」

 吐き出してから、術後に何度見たかわからないの顔を見つめた。
 目が覚めるまでアンバーを出航する気になれず、仲間には申し訳ないと思いつつコアラを含めたみんなが気を遣って了承してくれていた。本部にもすでに連絡がいっており、しばらくはここで様子を見るとコアラがドラゴンに進言してくれたようだった。つくづく彼女には頭が上がらない。
 ピ、ピ、という一定のリズムを刻む電子音が静まり返った医務室に響く。サボはの左手の甲に巻かれた包帯に触れた。
 ウォルトがを庇ったことは事実だが、子を持つ親なら誰だって同じことをする。だからが悔やむことはないし、命を賭して守ってくれた彼の意志に背くことのないよう生きるのがせめてもの恩返しだ。サボ自身両親に対して良い思い出はないが、大切な兄弟がいるからわかる。血がつながっていなくても家族のように大事だから。
 ――。お前が気に病むことはないんだ、胸を張って生きていいんだ。
 胸中で彼女に話しかけ、触れていた左手に自分のそれを絡めると思いが伝わるようぎゅっと握った。もし、彼女が自身の過去を悔やんで目を覚まさないでいるのなら、それは違うと言ってやりたかったのだ。

「覚まさないでくれって願ったり、でもやっぱり笑ってる顔が見てェと思ったり……どっちつかずもいいところだな」

 自嘲気味な笑みを作って、しかしそんなの答えは決まっている。目覚めないでほしいなんて、冗談でも願うべきことじゃない。サボが守らなきゃいけないのは彼女の笑顔だ。地に足をつけて生きていなきゃ意味がない。眠ったままじゃ喧嘩さえできないのだから。
 が泣いている。そんな気がして就寝前に来てみたが、サボの取り越し苦労だったようだ。これ以上いても無意味だと判断して医務室を出ようと立ち上がったとき、しかしサボの右手はか弱い力でその場に繋ぎ止められた。

「えっ……?」

 絡んでいたの指先がわずかにサボの手を握り返してきた、ような気がして再びサボの身体は彼女が眠るベッドに向き直る。
 見れば、彼女の目尻から涙が伝っていた。何かに抗うように、繋がれていないほうの手が空を切って必死にもがいている。サボは、彼女に届くよう声を荒げて名前を呼んだ。

!!」