めぐる記憶(2)

 そこは、懐かしい場所だった。
 ミモザの木が植えてある公園。忍者のお面に祭囃子。ベンチに座る今よりだいぶ幼いサボと自分。俯きがちな自分を必死に笑わせようとするサボ。その手に握られていたのはミモザの枝。ふわふわした球状の黄色い花が集まっているのが特徴的なそれ。父から母へ贈られた花という意識だけがあって、まさかそれと同じ花をサボがくれるなんて思ってなくて。涙を流しながら、彼に笑顔を向けたのだった。
 はこの光景を覚えていた。正確に言えば「思い出した」のだが、どうやら自分は本当にサボとの思い出を断片的というか所々忘れていたようだった。いつの間にか手から零れ落ちていた大切なものが一つずつ、パズルのピースでうめていくように形を成していく。
 少し離れた場所から、まるで誰かの思い出をのぞくようには幼い二人を見ていた。そして気づけば幼い自分と同じように泣いていた。ぽろぽろと涙で滲んだ視界に、泣きながら笑う自分と嬉しそうに破顔するサボが映っている。
 ああ、どうしてこんな大切なことを忘れていたんだろう。私から笑顔を取り戻してくれた人は他ならぬサボだったことを。任務のときも、訓練のときも、遊んでいるときも。彼はいつだってを案じていたというのに。
 草原から突如切り替わった景色に、はただただ泣くばかりでそこに立ち尽くしていた。どうして急にこの映像が流れるのかも、自身の置かれている状況も正確に把握できていないのに、ただ目の前の光景にはひどく心をえぐられるような悔しい気持ちに苛まれる。
 幼いが「ありがとう」と感謝の言葉を紡いで、彼の名を呼んだ。まだ妹の「」と兄の「サボ」でいられた、懐かしい思い出の一部。

「サボくん……」

 もう何年も呟いていなかったその名前をは久しぶりに口にした。いつから「総長」と呼んでいたのか。少なくともあの事件が起こるまでは、は彼のことを名前で呼んでいたはずだった。それがいつしか彼との間に妙な溝が生まれて、意地を張り続けてしまった。向こうがを遠ざけるものだから、こちらも対抗心が芽生えてつい突っかかってしまうのだ。
 こうして数年かけてできた溝は次第に大きくなり、二人の距離を広げていく。時折近くなったかのように思えて、けれども再び離れる。とサボはそんなふうに今日まで過ごしてきた。しかし思えばそれはから見た目線であって、サボの心情は一切窺い知ることができなかった。知ろうとも思わなかった。
 でも――だからきっとこんなことになったのかもしれない。記憶をなくしたを守ろうと必死になっていたサボの苦労も知らずに、生意気なことばかり口にして困らせて。だから、こんな大怪我を負う羽目になり、死の淵をさまよっているのだ。
 そうだ。これはへの罰なのだ。上司を困らせ、同僚を傷つけた自分への。記憶がないという理由に甘んじて平穏に生きてきた自分への。不可抗力だと言われれば確かにその通りだったが、結果エリスを傷つけてしまったことやサボたちに迷惑をかけてしまったことも変わらない。変えられない事実だった。
 過去はやり直せないし、事件のこともなかったことにはできない。しかしは革命軍の一員であり、世界の”自由”のために奮闘する戦士の一人だ。こんなところで死ぬわけにはいかない。それに、あの人に言わなきゃいけないことがある。だから――!

「神様お願いします。もし叶うなら、もう一度だけ私にチャンスをください……! 今度は間違えたりしないから、だからっ……」が空を見上げた刹那――

!!』

 の名前を叫ぶ聞き覚えのある声が響いた。昔から何度も耳にした、安心感を与える低い声。が今もっとも焦がれてやまない声。鼓膜を震わせるその声に、は辺りを見回して"彼"の存在を必死に探した。
 公園には幼い二人と自分以外誰もいない。じゃあ一体どこから聞こえるというのだろう。そういえば草原でも微かに誰かの声が聞こえたが、もしかしたらあのときの声の主も"彼"だったのかもしれない。そう思ったら居ても立ってもいられなくなり、はもう一度"彼"を探すために公園内を駆け抜ける。
 もしここがまだ死後の世界でないのなら、きっと元の世界に戻れる方法があるはずだ。自分を呼ぶその声に答えなければならない気がして、は声のある限り"彼"の名前を呼んだ。数年ぶりに紡いだ四文字は不思議と違和感なくの口に馴染み、あのときと変わらない親しみが込められていた。
 その間も周りの映像は流れ時間が経過していく中、だけが取り残されたように同じ場所をぐるぐるしては"彼"を探し続けた。

「サボくん、どこにいるのっ……?」

 走ったせいで息がきれる。現世とも常世ともわからない場所であるはずが、の体力は少しずつ奪われていった。けれどもなぜか空腹にはならないという不可思議な状態でもあり、実体があるのかないのか、自分でもよくわからないままはさまよっていた。
 公園を抜けて屋台が並ぶほうとは反対の方向をひたすら歩く。祭囃子が遠のいていき、ついに独りぼっちになった。完全に日が沈むとこの辺りは街頭がないが、どうやら星々が明かりの代わりらしい。
 一向に見つからない"彼"はどこからを呼んだのだろうと焦る気持ちとは裏腹に冷静にこの状況を分析する。それとも会いたいがゆえに幻聴を耳にしたのだろうか。こうした景色もの願望が強く、勝手に作り出されてしまっただけで、本当はすでに死んでいるのだろうか。
 神様が死ぬ前に良い夢を見せてあげるとでも言いたげに、これまでの"彼"との思い出を振り返っているのだとしたらなんて虚しい慰め方だろう。救いの手を差し伸べてくれるはずの神様は、純粋で美しい過去を見せてを憐れんでいるのか。そんな憐憫の情などいらない。そんなもの、求めてない。
 止まっていた涙が一粒。またひとつぶ、との双眸からこぼれ落ち頬を濡らしていく。ついに歩を止め、立ち尽くしたは途方に暮れた。この先ずっとこのままかもしれないと思ったら胸が苦しくなり、息ができなくなる。呼吸が浅い。空気を吸っているはずなのに、肺に入っていかない。少しずつ視界がぼやけていき、立っていられなくなったが地面に膝をついたそのときだった。

! こっちだ、早く来い!」

 静寂の中から再び声が聞こえた。刹那、腕をつかまれて強く引っ張られると、の顔は自然と上を向かざるを得なくなる。
 ぼんやりとした視界の中に映ったのは、どうしようもなく焦がれた"彼"の姿だった。
 どうして。今までどこに。なんで今。私死んじゃったのかな。
 いくつもの疑問が頭の中に浮かんでいたのに、どれも口にすることができなかった。ただ、ようやく会えた喜びと安心感から笑顔を返すのが精一杯だった。それも全然笑顔と呼べない情けない顔だったが。
 しばらくしての意識はぷつりと途切れ、視界が暗転した。


*


 が次に意識を取り戻したとき、見たことのある天井がはじめに飛び込んできた。それはもう二度とこの目で見ることはないかもしれないと諦めかけた景色であり、場所であった。
 軍の船であることにすぐに気がついたは、目が覚めたことを誰かに伝えようと痛む体に鞭打って上半身を起こした。しかし、突然何かによって体を覆われたのと名前を呼ばれるのとが同時に起こり、は再びベッドに倒れこみそうになった。

! 気がついたのか!? 大丈夫か、痛むところはねェか? あれから一週間も目を覚まさねェからこっちは冷や冷やしたんだが、まあ今はそんなことどうでもいいか。ともかくよかったよ、お前が無事で」

 矢継ぎ早にいろいろ言われて混乱する中、体を覆う正体が夢(と、呼んでいいのかはわからないが)の中で存在を望んだサボであることに気づき、は鼻の奥がつんとするのを感じて「あああ、あのっ……」慌てて彼から逃れようと身をねじった。
 ところが、相当強く抱擁されているのかまったく力が及ばず意味のない抵抗に終わる。ならばせめて涙をこらえようと鼻をすすって誤魔化し、は「総長」と肩書きで呼んだ。

「私、一週間も寝込んでたんですか……」
「ん? ああ、そうだな。お前が城で倒れてるのをおれとコアラで見つけて、途中でトラファルガー・ローとも会って……あいつが治療してくれたんだ」
「そう、でしたか……迷惑をかけてごめんなさい。ありがとうございました」
「もういいよ。お前が生きててくれたから」
「……」

 サボの「もういい」を聞くのは二回目だ。あのとき――足手まといと言われたが反発して勝手に本部を飛び出して遭難したときも彼は同じ言葉を使った。許しの響きを持つその言葉は、にとって余計に罪悪感を募らせるのだが、きっとサボは気に病む必要はないと言いたいのだろう。それでもどうしたって自分の不甲斐なさが浮き彫りになってしまい、やるせなくなる。
 死ぬかもしれないと思ったときは、伝えたいことがあるから死ねないとあれほど強く願ったはずなのに、いざ本人を目の前にすると言葉が一切出てこなかった。謝罪と礼は「もういい」と言われているし、ほかに何か言わなきゃと思えば思うほどの口は閉じたまま動かない。理由はわかっていた。わかっているからこそ言わないほうがいいとも思ってしまうのである。
 やっとサボの体が離れていったかと思うと、彼の瞳には薄っすら涙の跡があってそれを見たらやっぱり申し訳なくなる。

「話したいことはたくさんある。けど、まずは体を診てもらわねェとな。あいつ呼んでくるからちょっと待ってろ」

 が無言のままでいるのを、落ち込んでいるとでも解釈したのか、サボは努めて明るく振る舞ってそう言った。くしゃりと撫でられた感触にどぎまぎしつつ素直にこくんと頷くと、彼は満足げに笑って医務室を出ていくのだった。