秘めたる感情(1)

 降り続く雨をぼうっと見ながらこの先の進路を考えていた。
 アンバー王都付近の宿屋から見える城は主がいないせいか物悲しい雰囲気が漂っている。城外に避難しているという話は本当だったようだ。どうりで混乱が起きていないわけだ。王都から離れるにつれて殺伐としていて、この辺りはその気配がまったく感じられないことに違和感を覚えていたのだが、王族自身が混乱を避けているのであれば納得できる。
 そもそも教会の革新派を唆すといった行動も、あの女にとってはあまり意味などなかったのだろう。後ろ盾だと確信していたドフラミンゴの存在は欠片もない。つまりローにはここに来たことはまったくをもって無意味だったわけである。
 窓の外は悪天候な上、あちこちから吐き出される煙が鈍色の空に混じって余計に陰鬱とさせる。何もしていないときほど、考えなくていいことまで浮かんでしまいどうするべきか悩む。
 このまま会わずに出航することも考えていた。治療は無事終えたし、毎日バイタルチェックはしているが健康上の問題はない。そう、が目を覚ます前に離れるのも一つの手ではあった。何も告げずに別れたほうが自身の心に妙なささくれが立たなくて済む気がしたからだ。顔を見てしまえば、自ら傷を抉られにいくようなものだ。
 そうして悩んでいる最中のことだった。が意識を取り戻したという知らせを聞いたのは。時間にして、ローが治療を終えてから一週間も経ってからのことだった。革命軍のナンバーツーが直々に伝えに来たことは驚いたが、血相を変えて負傷した彼女を抱える姿を目撃したときからなんとなく深い事情を察せられたので気に留めることもないだろう。
 若干気が進まないまま宿を後にし、革命軍の船へ移動する。いつまで降るのかわからない雨はもう一週間も振り続いていた。


 腹部と左手を負傷した彼女は、思いのほか平然としていてあろうことか優雅に読書していた。ポーラータング号での出来事を思えば、ああ見えて肝が据わった女であるというのはわかっていたが、こうも普通でいられると最初から怪我なんてしていなかったのではないかと思わなくもない。
 医務室に入ってきた人間の存在に気づいて本から顔を上げたは「ああ、トラファルガーさん」と至って普通に挨拶を投げかけてきた。意表を突かれたように一瞬その場に立ち尽くしてしまい、が首を傾げてもう一度名前を呼ぶ。「何でもねェ」と返して彼女が座るベッドへ近づいた。

「体調はどうだ?」手を取って脈を測る。
「んーそうですね。腹部のあたりはちょっと痛みますけど、ほかはこれといってないです」
「しぶとい奴だ」

 鼻で笑ってやれば、もまた頭を掻いて「そうですかね」と表情を崩した。霧が晴れたような清々しい顔をしている彼女は一週間前に会ったときよりも迷いのない瞳でこちらを見ている。どこか覚悟を決めたような、そんな――って、おれが気にしてどうする。
 こいつとは最初から何もなかった。ましてこれから何か行動を起こすつもりもない。連れて行こうなど一時の気の迷いだ。つい数日前に認めたばかりの、仲間とは別の線上に位置する"何か"という存在を振り払う。
 言い聞かせて、ローは腹部の傷を診ていいか聞いた。

「なんでそんなこと聞くんですか? 海賊とはいってもお医者さんなのに……今日のトラファルガーさんは変ですね」
「……口の減らねェ女だな。襲われてェのか?」
「あ、ちょっと。勝手にめくらないで、くださいっ」

 着ていたシャツに手をかけたら制された。少し元気になったと思えばこれだ。革命軍に所属しているだけあって変に度胸がある。現在、王下七武海とはいえ元は億の懸賞金がついた海賊団の船長の部屋に忍び込むとは正気の沙汰ではない。
 ローは彼女の頼りない抵抗を無視して腹の具合を確認する。傷は深くないものの臓器の近くまで刺さったはずで、本来なら今まで通り動くには最低でも数週間は必要だ。それがローの見解であり揺らがない事実。
 右手での腹部に触れる。女特有の柔らかさをこの前まで意識していなかったというのに、なぜか手が一瞬躊躇いをみせて止まる。だが、トラファルガー・ローは海賊であり医者である。自分が治療したけが人を前に放置するなどあり得ない。だから、雑念を振り払って気づかないふりをした。

「今度は強引ですね。まあ別に一度診察を受けてる身ですから、今更恥ずかしがっても意味はないですけど……っ」興奮したせいで痛みが襲ってきたのか、腹を押さえてうずくまった。
「言わんこっちゃねェ。バカが」
「すみません大人しくしてます」
「最初からそうしてりゃあいい」

 それからのは黙ってされるがまま診察を受け、こちらが質問することにもしっかり答えを返した。時々左手の包帯をさすりながら憂いを帯びた表情を見せていたが、あえてそのことには触れずローは気になっていた記憶のことについて聞いてみることにした。

「お前、記憶はどうなんだ。戻った、のか?」

 無理に聞くつもりはないが、医務室に来てから違和感が拭えなかった。記憶が戻ったにしては随分と冷静でいることに。仮にもこの間まで仲間だった奴に裏切られ、父親が死んだ原因を作ったのが自分だとわかったのなら取り乱してもいいほどだ。特には、そうとは知らずに生きてきたのだから。
 しかし、実際目の前にいる彼女は取り乱しているどころか気にした様子もみられない。追及するのもどうかと思ったが、どんな心境なのか聞いてみたいと、これもまた単純な興味本位だった。もし記憶が戻っている上で、冷静なままでいるならその胸の内を聞いてみたかった。まったく同じだとは思わないが、自分のために誰かが命を賭してくれたという意味ではローも似た境遇を持つ。
 ちらりとのほうに視線を向けると、やはり落ち着いた表情を作って「ああ、そのことですか」と穏やかに笑った。そしてゆっくりと頷いてから再度口を開く。

「全部、思い出しました。昔この国に来たことも事件のことも……それから、父のことも」
「……」
「タイミングはよくなかったですけど、エリスちゃん――って覚えてます? 彼女が思い出させてくれたというか、まあいろいろあって……」
「あの女は結局向こう側だったのか? 最初からきな臭ェ気はしたけどな」
「そうみたいです」

 そう答えたが初めてつらそうな顔をした。仲間だと思っていた人間が突然寝返ったら、当たり前だが精神的ショックは大きい。それも彼女とあの女は同じチームでともに任務をこなしてきたというから尚更だろう。
 ローが築いてきた人間関係の中で個人的に裏切られた経験はないが、自身の境遇からいえば人間は簡単に手のひらを反すということだ。権力や金をちらつかせれば人は心が揺らぐ。もちろん例外はあるが、世の中は皆が皆優しい善人ではないということを幼少の頃に学んでいる。平気で人を傷つけ、それをどうとも思わない非道な人間は一定数いるのだ。
 ただ今回の場合、親しくしていた人間だったというところに大きな意味がある。にとって気心知れた仲間、ともに戦ってきた仲間というところに。
 かけるべき言葉を選んでいると、自ら「実は……」とぽつりと語りだした。

「彼女、以前の事件で会ったことがあったんです。首謀者の娘として革命軍の注意を引く役を任されてて、私がそれに気づかないまま向こうの罠に引っかかった。それで父は……」
「殺されたって言いてェのか?」
「……知ってたんですか? まったくもう意地悪な人ですね」

 は力なく笑って視線をベッドに向けた。
 彼女の話はこうだ。十年前、この国に目をつけていた革命軍は彼女の父ウォルトを筆頭にクーデター阻止のためやってきた。アンバー城への潜入を託された当時九歳のが、目的の場所で待機していると同い年くらいの子どもと遭遇したという。子どもはと同じようにドレスを身にまとい、あたかもそのとき開催されていた城内のパーティー招待客の娘だと思われた。だからは転んだ子どもに近づいて助けようとした。それが、当時の犯罪組織を率いていたマーティン・アレスの娘だったとは知らずに。
 結果、は人質になり、クーデター自体は阻止することに成功したものの唯一の肉親を喪った。自分を庇ったせいだということも理解しているという。
 あの日のすべてを思い出したという彼女は、しかしあまり気が滅入っているという様子は感じられない。やはり不思議に思う。意識のない間に、彼女の中で一体何があったのだろうか。

「でも悔やむのはやめました。そんなことしても意味がないと思って」
「……?」
「目が覚める前まで、懐かしい景色を見たんです。幼い頃の」

 そうしては、かつての日々を語りだした。