秘めたる感情(2)

 不思議なことに彼女は意識を失っている間、昔の記憶の中をさまよっていたらしい。十年前のことを思い出したことが関係しているのかどうか定かではないが、記憶の海を漂うというのはどんな感覚なのだろうか。その中には良い思い出もあれば、忘れたい過去もあるはずだ。
 ロー自身、こんな確証もない事案に乗っかって別行動をしているくらいには過去に囚われている。しかも当てが外れて結局空振りとは笑えもしない。一体何をしてるのだ、と頭の中にいる冷静な自分が問い詰めてくるが、無視して彼女の話を聞き続ける。

「総長とはその頃からの付き合いで兄妹みたいなものなんですけど、よく怒られもしたんです。弱ェくせに前に出てくるなーとか。おれの前に立つなーとか」

 が気づいているかどうかわからないが、怒られたという割に彼女の話しぶりに全然マイナスな感情が感じられない。それどころか、随分と柔らかい表情で語るものだから否が応でもわかってしまう。わかりたくもないのに。
 本人の自覚の有無は別として、ローが彼女に気持ちを打ち明けていないだけまだマシなのだと思えばいくらか楽だった。二週間ほど前のやり取りを思い出しながら、あれはギリギリ問題ないと自身を正当化する。
 アンバーに到着する前、ちょっとした気の迷いで過去を共有し、あろうことかついてこないかなどと口走るとは。似た境遇を持つ彼女に情が湧いたのは事実だが、一時の感情に過ぎないはずだった。それが少し時間を共にしただけでこうもあっさり流されるとはらしくもない。
 だが、「ついてこないか」という問いは決して恋だの愛だのといった浮足立つ言葉で片づけるために言ったわけではなかった。もちろん好いているか否かで言えば前者である。何も言わずに寄り添ってくれたあの夜、泣いたを見て何も感じなかったといえば嘘だからだ。
 とはいえ、こうも思う。もし仮に彼女を連れて行ったとして、ドフラミンゴと天秤にかけるような事態になったとき――はたして自分は目的遂行と彼女、どちらを優先させるのか。胸の内に問いかけてみるものの、すでに答えは自分の中にあった。
 こちらの思惑に気づくことなく、は喋り続ける。

「あのときはちょっとうっとおしいなんて思ってたけど、でも……私を危険から遠ざけるためで、決して足手まといなんかじゃなかった。今さらって思うかもしれませんが、上司の優しさにやっと気づいたんです」

 は懐かしさに目を細めて微笑んだ。
 上司の優しさに気づいたと彼女は言っているが本当のところはどうだろうか、とローは邪推する。確かにそれもあるにはあるだろう。危険な目に合わないでほしいという願いは、自分にも妹がいたから大いに理解できる。
 しかし、と革命軍ナンバーツーのあの男は本当の兄妹ではない。それに革命軍なんていう組織に所属しておきながら危険な目に合わないという考えは甘すぎる。特に達は世界政府と対立する立場なのだ、危険と隣り合わせと言ってもいい。だから、もし奴が本当にそれだけの理由で彼女を囲っているなら滑稽であり、ナンバーツーの名が聞いて呆れるというものだ。
 そう――ローは、だから理由はもっと根が深いのだと思っている。シンプルでありながら、貫き通すには自身の立場が邪魔をして許してくれない。かといって、どこの誰かも知れない男に託すのは心が納得できない。理屈ではないそれは、同じ女に興味を持ったからこそ理解できてしまう。そして、自分と奴との決定的に違う点がそこにあるということも、また理解していた。

「そうか……なら、これからはその殊勝な態度で接してやったらどうだ」
「……」ローの言葉にはぽかんとしてこちらを見つめていた。何も言わないのをいいことに、そのまま思っていることを続ける。
「あいつも心が休まるんじゃねェか? 短期間しか過ごしてないおれでさえ、お前は危なっかしい人間だと認識してる」
「……なんですか今日のトラファルガーさん。ここぞとばかりに言ってきますね」
「事実だろうが」
「まあ、そうかもしれないですけど……でも、もう一つ気づいたことがあるんです」

 なんだ、と聞いてやればは視線を包帯の巻かれた左手に向けて、傷になっているそこを撫でながら語りだした。
 それは彼女が父親の死や仲間の裏切りを受け入れ、新たに踏み出そうとする決意の話だった。ともすれば、精神的負担をかけたり、パニックを起こしたりといった可能性もあったはずだが、どうやら意識を失っている間というのは、こちらが思う以上に彼女に冷静になる時間を与えてくれたようだ。寂しそうな顔をしながらも、どこか晴ればれとしていたのはそういうことだったらしい。
 革命軍の一戦士として、改めて父の意志を継いで仲間とともに戦っていく決意ができた、とは言った。そして「総長を支えたい」とも。その瞳は出会ったときの危うさはなく、確固たる覚悟や闘志が秘められていた。
 これが彼女の"答え"なのだ。撫でている手の甲に向けて「エリスちゃんは戻ってこないけど」と付け加え、それでも進んでいきたいのだという。その声は悲観的なようで、力強く前向きな印象を受ける。
 それからおもむろに顔を上げたがローをまっすぐ見つめた。

「彼女を傷つけてしまった事実は変わらないし、父も戻ってこない。でも、だからこそ止まりたくないと思いました。私は私のやるべきことを貫きたい。それが、私を庇って死んだ父への恩返しだと思うから」

 はっきりとした意思を感じ取れる口調で、は"恩返し"と言った。
 なるほど、ここに来て自分と同じ志を持つのか、とローは柔らかな笑みをこぼした。しかしそれを悟られないように口元を覆いながら、「そうか」と短く返事をして無遠慮に彼女の頭を撫でてやった。
 現在ローが単独で行動している理由は過去の因縁に決着をつけるために他ならない。これは自身の問題であって、仲間には何の関係もないからだ。
 恩人である彼の遺志を継いで、ローはどうしてもやらなければならないことがある。そのために若干の予定を変更してここに来たわけである。とはいえ収穫はゼロだったのだが。
 しかし彼女のおかげで自分も迷うことなくやり遂げようとする意志が固まったのも事実だった。彼女が父親の遺志を継いでいくように、ローもまた"本当の自由"を手に入れるために何としてでもドフラミンゴを止める。そのためなら命を落としても――とは思っているものの、命の恩人が自分の命を賭してまで守ってくれただけに、無下にするわけにはいかない。だから命を懸けて目的は遂行しても、自ら馬鹿な真似はしないようにするという心がけはあった。
 それは「復讐」とは違う、大切な人間の想いを継いでいき絶やさないという己の「誓い」だ。彼はローに自由であることを望んだ。無駄死には御免だが、奴を止めるために惜しむものは何もない。

「それに……これは私の想像でしかないんですが、エリスちゃんは最後わざととどめを刺さなかったように思うんです。復讐なんて言ってたけど、生きてるってことは腹部の傷が致命傷には至らなかった。それは彼女が最後の最後で躊躇った証拠なんじゃないかなって」
「……」
「だったら、私は立ち止っちゃいけないと思います。革命軍の一人として、世界を変えようとしているドラゴンさんの――サボくんの力になりたい」

 それは、ひどく眩しくて目を背けたくなるような曇りのない澄んだ光を宿していた。どこまでも真っすぐな視線にローは思わず逸らしてしまったが、しかしこれでやっと諦められることに気づく。
 が革命軍として生きていくというなら、ローはこれまで通り目的のために我が道を行くだけだ。そこにほかの感情は一切入り込ませたりしない。一度は過去を共有した間柄で、多少なりとも好感を持ったことは否定しないが、参謀の奴と違ってローは目的遂行と彼女を天秤にかけたとき優先すべき事項は前者であり、切り捨てることができる。つまり、ローにとってそこが分かれ目だった。もちろん仲間となれば話は違ってくるが、たらればの話をするのも野暮というものだ。

「まァいいんじゃねェのか。お前はお前のしたいようにすれば」
「本当にそう思ってます? さっきは殊勝な態度でいろとか何とか言ってたじゃないですか」
「……うるせェな、素直に頷いときゃいいだろう。それより、腹以外も確認するぞ」
「あーまた勝手にっ……!」

 ベッドカバーをめくって脈を確認すべく袖をまくると、が軽い悲鳴をあげた。怪我人な上、一週間も寝たきりであれば体力がなくなっていてもおかしくないはずだが、彼女はやけに元気である。
 しかし彼女のそうした無邪気で害のない清らかな感情が、ローに束の間の穏やかな時間を運んでくれていた。口にはしないが、暗にそれが伝わればいいと脈を取るついでに彼女の華奢な手を撫でた。
 くすぐったいです、という気の緩んだ発言に毒気を抜かれて、ローは彼女と離れる決意を固めた。