決別、それは明日へと続く道

 の目が覚めてから三日目のことだった。それまでアンバーにとどまっていた海賊、トラファルガー・ローが出航すると突如言い出したのである。
 彼にしてみればとどまる理由はを治療する以外にないはずなのは間違いなかった。一週間前も話した通り、この件に関してドフラミンゴは一切関係ないことがすでにわかっている。二人がどんな因縁を持つのか知る由もないが、当てが外れた以上彼がこの国にとどまる理由はただ一つ。の目が覚めるかどうかだ。海賊の彼に任せたのは、以前弟を助けたその腕を見込んでのこと、少なくとも医者という肩書きは伊達ではないのだろう。一週間もかかったが、こうしては無事意識を取り戻したし、順調に体力も戻っており快復に向かっているという。一度覚めてからというもの、彼は経過観察として何度かのいる医務室を訪れては報告をしてくれた。だから彼の言うことに間違いはないだろう。サボもやっと胸をなでおろした。
 もう自分がいなくても大丈夫だと、そう伝えに来た彼はどこか寂しそうにも見えてサボは出ていこうとする彼をふと呼び止めてしまった。

「もう、いいのか?」
「……何のことだ」

 何のことって、何のことだろう。自分から呼び止めておいて、何を聞きたかったのか
 ドフラミンゴのことはすでに知り得ていると向こうもわかっているから、それが聞きたいわけじゃないことはお互い承知の上だ。サボは無意味に手を組んで落ち着きなく指先を動かし、本音を誤魔化そうとする。明確な言葉にしてしまえば後戻りできないからだ。
 どうして忘れていたのだろう。が目覚めた時点で、彼女の記憶が戻っていることは限りなく百パーセントに近いということを。目覚めてすぐローに看病を任せ、アンバーでの件の後始末をしていたことで確かめる機会はなかったが、エリスとのあの状態を見ればある程度の想像がつく。取り乱してこそいないものの、の心が革命軍から離れていく可能性だってあるというのに。
 あいつの好きにさせられたらどんなによかったか。妹だと割り切って自由にさせられたら――サボはハッと我に返る。自身が誰よりも"自由"を望む一方で、彼女を縛りつけているのはサボ以外に他ならない。ウォルトとの約束は、いつの間にかサボの私欲で覆われていた。がここ以外の場所で幸せに暮らしている姿など、想像しただけで気が狂う。
 心中がぐちゃぐちゃになって黙っているだけのサボの表情をどう読み取ったのか、ローが「ああ」とこちらの言いたいことを理解しているような口調で呟いた。

「なるほどな」
「……?」何も言ってないはずが、ローは意地の悪い笑みを浮かべている。
「あいつの意思を尊重してやれ。それが兄ってもんだ」
「……!」

 意味深なことを言った彼は今度こそ部屋から出ていった。呼び止める隙も与えず、一人ぽつんと取り残されたサボは彼の出ていった扉を見つめて呆然とするしかなかった。
 ――どういう、意味なんだ。
 はここを出てどこか別の場所で生きていこうとでもいうのか。それともまさか、あいつについていくつもりなのか? いや、それはない。もしそうならだって自分に会いに来るはずだし、第一彼女はまだ動ける状態ではない。
 一人で考えても答えの出ない問いが頭の中をぐるぐると占める。船内で片づけられる仕事をしていた手が止まったまま、サボはやるせなさに唇を噛みしめた。そして、ローに心を見透かされていることがサボをひどく動揺させていた。
 彼にのことについて何か言った覚えもなければ、それとわかるような態度をとった覚えもなかった。少なくともサボの認識では。自身の胸の内を明かすようなことは何があってもしないと決めていただけに、こうもあっさり見破られているのかと思うと情けなく感じる。いや――コアラもハックも同じか。あのエリスだって、疑問をぶつけてきたくらいだ。
 気持ちを打ち明けない代わりに、どうやら周囲がわかるほどには態度に表れているようだった。認めたくないと頑なに首を振ってきた結果、心が限界を超えてしまったのかもしれない。調査二日目の夜、浴びるように酒を飲んだのがいい例だ。
 あの夜を思いだして自嘲の笑みがこぼれる。何を間違ったのか、の部屋に入って彼女に覆いかぶさって寝てしまうという失態をさらした。はコアラ達に言わなかったようだが、あんなふうに自棄酒した挙句、他人の――それも異性の部屋に侵入するとは、参謀総長として面目が立たない。しかし裏を返せば、それほど悩みの種になっているということであり、彼女がサボの心を掴んで離さない存在なのである。
 ただの仲間だと割り切れたらどんなに楽だったか。ドラゴンに忠誠を尽くし、ウォルトの遺志を継いで、同じ目的のために共に闘う。出会った当初こそ同じ志だったはずが、一体どこで歪んでしまったのか。いや、そんなの決まっている。ウォルトが亡くなってからだ。あの出来事が二人の関係を変えてしまった。とはいえ、に対する想いはそれよりもっと前から幼いサボの中にしっかり芽吹いていただろう。はっきりと自覚したのが定かではないにしろ、やっと自分で認めることができたのはあの夜だ。長すぎてコアラが呆れるのも無理ない。
 先ほどと似たような思考になっていることに気づいて、サボは首を振った。

「どうしたらいいんだろうな」

 誰に尋ねるでもなく呟いた言葉は、静まり返った部屋に吸収されていった。


*


 どうやって言ったらいいのかなあ。
 遅い朝食のシリアルをもそもそと口に入れながら、は先ほどから同じことばかりを考えていた。
 最初こそ動けず、お手洗いに行くのさえ不自由だったの体力は少しずつではあるものの戻りつつあった。コアラに付き添ってもらいながら、というのは我ながら恥ずかしさが勝ったが、自業自得な傷だけに文句は言えまい。三日目になって部屋の中だけならようやく一人で移動できるようになったため、コアラに朝食を持ってきてもらったあと、そのまま彼女には仕事に戻ってもらった。停泊中でいつもより仕事量が少ないといってもゼロではないので、忙しい彼女をここに縛りつけるのは気が引ける。
 しゃり、という咀嚼音が鳴る。手軽で栄養価の高いシリアルはしばらくの間点滴だったでもなんとか食べることができている。飲み込むのにかなり時間を要するが、「怪我人なんだから気にしないの」とコアラが言うので気にしないことにした。
 ――はあ。どうやって言ったらいいのかなあ。
 気づけば同じことばかり考えていた。一人になるとどうしても沈みがちになってしまうのでよくないなと思う。でも、だって仕方ないじゃないか。と、誰に言うわけでもなく言い訳をこぼす。
 目覚めてすぐ会って以来、サボは一度もここへ訪ねてきていない。それの意味するところを考えたくなくて、は無理やり他のことを考えようとしている。だから、仕方のないことだった。
 気持ちがどんどん底の見えない海に沈んでいきそうになるのを、突然鳴ったノック音が引き上げた。

「どうぞ」
「……悪い、朝食中だったか」
「いえ、今は食べるのが遅いので仕方ないんです。どうしたんですか?」

 入口に立つローに向かって来室を促す。がシリアルをサイドテーブルに置いたのを見てようやく入っても大丈夫だと判断したらしい彼は、少しよそよそしい感じがして違和感を覚えた。無遠慮――とまでは思わないが、少なくともに遠慮するなどこれまでの彼の態度からは考えられなかった。何かあったのだろうか。
 そんなの思惑に反して、中に入ってきた彼はいつも通りバイタルチェックだという定期診察を手際よく行っていく。怪我の具合、脈拍、心臓音、そしてほかに痛みはないかと聞くのもいつも通り。しかし、どこか落ち着かないように見えるのは気のせい……?
 そういえば、どうしたんですかという問いに答えがないのも気になる。それに朝の診察は終わっているし、あれから二時間と経ってない間に再び診察というのは変である。

「あの」
「……なんだ」
「何かありましたか」
「……どうしてそう思う」
「だって、診察はさっきしたばかりだし、いつもよりトラファルガーさんがよそよそしく感じます」

 虚を突かれたように、ローは手が止まって珍しくあからさまに困った顔をした。これは一緒にいてみてわかったことだが、彼はクールそうに見えてたまに少年っぽい部分を出すことがある。常に冷静で落ち着いた人間などいないとは思うものの、どこかおかしくては笑ってしまう。目ざとくその様子を見ていた彼がじろりと睨みをきかせてきたので一応謝っておく。
 朝とまったく同じことを繰り返したローが、今度はの手の甲に巻かれた包帯を変えると言い出したので渋々応じる。やっぱりどうも彼の態度にはしっくりこないが、話したくないのかもしれないしこちらから無理に聞くのも憚られるので、どうせならとは自身の悩みを打ち明けてみることにした。

「ちょっとだけ、私の話聞いてもらえますか」
「……」無言だが、目がいいと言っている気がしたのでは続ける。
「総長に、なんて言えばいいのかわからないんです。ただでさえ、勝手に抜け出してここへ来てしまった負い目があるのに、今回のことで今度こそ突き放されるような気がして……今までの"足手まとい"が建前だったとしても、今回ばかりは否定できません」
「まァそれは否定しねェな。お前が取った行動で、最悪の場合クーデターが起きてたかもしれないと考えるなら尚更」
「ですよね……」
「けど、実際そうじゃねェ。今回はあの女が独断でお前に復讐するために怪しく振る舞ってただけだろ。国は確かに混乱してるが、あれは身内のゴタゴタだ。いずれケリがつく」

 包帯を解き、近くにあったゴミ箱に捨てると、ローは一度立ち上がって棚の中にある新しい包帯を取り出した。革命軍の医務室だというのに数回立ち寄っただけでもういろいろ把握しているらしい。怪我の手当てもさすが医者、手際がよかった。
 彼の手の動きを見つめながら、けれどの表情はやっぱり晴れなかった。サボが会いに来ないのは自分の不甲斐なさにとうとう痺れを切らしてしまったのではないか。マイナスな考えばかりがの頭を占めるのだ。

「でも、なんて言えば――」
「思ってることそのまま言えばいいだろうが。あいつはお前の言うことに耳を傾けないような奴なのか?」

 首を横に振って、間髪入れずに否定する。そんなわけない。あの人はこちらが紡ごうとする言葉を真剣に受け止めてくれる。確かに最近はのやることなすことに否定的だが、その裏に隠された意味を理解した今はそんなふうに思わない。

「……私は、革命軍の一員として生きていきたい。これからも総長のそばで」
「おれじゃなくてあいつに言え。お前は生きてるんだ。伝えられるうちにきちんと言葉にしとけ」
「……はいっ」

 新しい包帯を巻きなおしたローの手がそのままの頭をわしゃわしゃと撫でた。なんだか彼も兄みたいな人だと、ふとそんなことを思う。
 しばらくして大きな手が離れていくと、彼は唐突に「今夜ここを出る」と大真面目な顔を作って言った。

「えっ、今夜ですか……?」
「ああ。お前の体調も戻ってきたしな、おれが診なくてもいいと判断した」
「そう、ですか……今夜……」

 随分急だと、の口調はたどたどしくなった。彼の言うことはつまりここでもうお別れということになる。もともと海賊なのだからずっと一緒というわけにはいかない。頭では理解しているのに、突きつけられた現実になぜか見放された気分に陥った。
 ――見放されたって、別に彼は仲間でも何でもないのに。どうしてそんなふうに思うんだろう。
 は自分の中に渦巻く不鮮明な気持ちに戸惑いながら、扉の外へ消えていく背中を見つめていた。