雁字搦めにしたのは誰だったのか(1)

 コアラが彼らに出会ったのは、実は例の事件より後だったりする。
 "天竜人"の奴隷だったコアラの過去にはあまり良い思い出がなく、十五年前にフィッシャー・タイガーという魚人によって奴隷から解放され、その三年後彼の所属するタイヨウの海賊団に故郷へ送り届けてもらうことになった。最初は奴隷のくせが抜けず「どんなときでも笑顔でいる」ことが当たり前だったが、助けてくれたタイガーやその仲間の魚人たちのおかげで徐々に本来の生活を取り戻すことができた。
 そのあとタイガーたちによって故郷に戻れたものの、彼は海軍の策略にはまり重症を負った。元奴隷だったということから人間の血を受け入れることなく、そのまま命を落とすことになってしまう。
 そうした経緯もあり、コアラは魚人たちへ恩を返すため世界を変えようと"天竜人"を倒すことを目的とする革命軍に入隊した。
 それが、コアラが十四歳のときである。つまりそのときサボは十三歳であり、は十歳だった。二人が例のアンバークーデター未遂事件の一年後になる。の記憶の一部はすでになく、何も知らぬまま過ごしていた。しかしコアラは入隊当初事件のことなど露知らず、至って普通に仲間として彼らに接し、共に任務をこなす日々。特別おかしなことがあったわけでもない、チームで切磋琢磨しながら協力して絆を深めていった。に対するサボの態度も、コアラが来る前から兄妹のようだという話を聞いていたから何も疑わなかった。
 均衡が保たれていると思っていた関係は、けれどエリスが同じチームにやってきてから少しずつ亀裂を生んでいった。
 今までがやっていた潜入任務にエリスがつくことが多くなったことが始まりだったように思う。年が近い上に体型も似ていた二人は、潜入における身のこなし方もほぼ同程度の能力を持ち合わせていた。そういう理由もあって最初はあまり気にしていなかったのだが、明らかにが得意とするような任務もサボはあえてエリスを任命する回数が増えた。
 当然が納得するはずもなく、「どうしてですか」という言葉は自然と彼女の口から漏れ出た本音だった。対してサボはなんと答えていたか、はっきりと思い出すのは難しいがこの頃はまだ「足手まとい」だとか「力不足」だとか直接的な言葉ではなかったはずだ。多分エリスに任務に慣れてもらうためだ、とか適当な理由をつけていた気がする。思えば彼はこのときすでに、に対してある一定の線を引いていたのだろう。

 サボは何かとを気にして任務にあたっていた。事あるごとに「大丈夫か」「怪我してないか」といった言葉を投げかけては、から過保護すぎだと鬱陶しがられていた。本人は意に介さず当たり前のように振る舞うので、コアラは単に行き過ぎた兄の行動だと思うようにした。
 それを疑問に思うようになったのは、エリスが来てから数年後のことだった。とある国へチームでの潜入捜査が決まったときのこと。紛争が目立つ地域への調査は慎重に慎重を重ねることが何より大事であり、少しのミスが命取りになったりもする。とはいえ、これまでにも似たような任務をこなしてきたコアラたちにはいつも通りに進めれば特別難しい任務ではなかった。
 ところが、バルティゴ出航前の晩、突然サボはを任務から外すと言い出したのである。本人はもちろん抗議したが、サボは一向に譲らなかった。彼の執務室に集まっていたハック、エリスも一切口を出さずに聞いていたものの、泣きそうな顔で部屋を出て行ったを不憫に思っていたのは間違いない。
 今でも覚えている。
 "もういいです。総長は私のことが嫌いなんですね"
 彼女もまた彼に対して線を引いた瞬間だった。そして、自分で彼女を傷つけたにもかかわらず、この言葉に傷ついたような顔しているのはサボ本人で、ますます意味がわからなくなった。
 だからコアラは聞いたのだ。
「さすがに"兄"の行動の域を超えてるんじゃない?」と。
 コアラの問いかけにサボは目線だけこちらに向けて何かを言いたそうにしているが、結局「別に関係ねェだろ」なんて突っぱねた。その態度にコアラは唖然としたのと同時に、一体何が彼をそんな頑なにさせているのか気になった。まるでサボは、が革命軍で任務をすることに反対しているように思えて仕方ないのだ。
 執務室に流れる不穏な空気を見かねたのか、それまで黙っていたハックが「サボ」と呼びかけた。

「コアラ達には話しておいたほうがいいんじゃないか」
「……」
「これからもっと危険な任務もでてくるだろう。そのときもこうやって関係ないと言うつもりなのか?」
「……わかってる」

 頬杖ついて机を睨みつけながら、不貞腐れたような表情でサボが答えた。
 どうやら二人の間では何か共有している情報があるらしい。もしかしたらコアラやエリスが入隊するより前にサボとの間に何かあったのかもしれない。
 しばらく沈黙が続いたあと、「お前らには話すよ」と抑揚のない声が執務室に響いた。話すこと自体が億劫そうに聞こえて、そこまで躊躇うことなんて本当に一体何だというのだろう。純粋に知りたかった。これから長い付き合いになる二人だからこそ、知っておきたかった。
 コアラがアンバークーデター未遂事件のことを聞いたのは、こうした経緯があってからだった。サボとの複雑で、それでいてひどく愛に満ちた関係はこうして少しずつ歪んでいった。


*


 時計の針の音がやけに大きく聞こえる。ちらちら見つめてはどこかを気にして落ち着かない様子。書類と睨めっこを繰り返し、けれど心ここにあらずといったふうに手元はなおざりだ。先ほどから同じ書類ばかり見ていて一向に進んでいないことを、コアラは一時間前から確認している。一体何をしているのやら。
 行けばいいのに、と胸中で呟く。
 どうも彼は簡単なことを自ら複雑怪奇にしている節がある。今に始まったことではないが、素直になっていればここまで雁字搦めにならずに済んだのに、と思わずにはいられなかった。事情はもちろんわかっているものの、そこまで頑なになろうとする理由がコアラにはわからない。はっきり伝えて、それでも一緒にいる方法はいくらだってある。
 はサボが思うほど子どもではないし、れっきとした革命軍の戦士だ。多少の危険はつきものであり、そうとわかった上で彼女はここにいることを選んでいるのである。これまでコアラは彼らの関係に特別口出しはしてこなかったが、が記憶を取り戻した以上誤魔化してやり過ごすことはもうできないだろう。

「ねえサボ君。このままでいいの……?」

 コアラは、だから背中を押すつもりでそう聞いた。
 二人にはこれからも共に闘っていく仲間として一緒に歩んでいきたいと思っているから。サボは上司であると同時に姉のようなポジションで叱咤し、は後輩であり妹であり、そして近しい友人として仲良くありたい。コアラはそう願っている。
 意地を張って気持ちを押し込めていたらいつか壊れてしまう。そうなる前に、二人にはこの状況を打破してほしかった。

「いいわけねェだろ。けど、ウォルトさんとの約束があるんだ。おれはもう二度と……をあんな目に合わせるわけにはいかない」
「サボ君。確かに”約束”は大事かもしれないけど、何もを囲う必要はないんじゃないかな」
「……?」
「危険な目に合わせたくないっていうのはわかるよ。でもだって革命軍の一員だし、任務だってきちんとこなせる。サボ君が思ってるほどは子どもじゃない。危なっかしいところはあるけど、まったく怪我をしないなんてここにいる時点で無理なんだよ」
「それはっ……そうかもしれねェけど、」
「じゃあ、革命軍から脱退させる?」
「んなの却下に決まってんだろ」噛みつく勢いで即答するサボにコアラは苦笑いした。
「だったら、少しはを信頼して背中を預けてみたら? 笑顔を守るのと、箱の中に閉じ込めておくのとは雲泥の差があるよ」

 誰よりも大切だから傷つけたくない。それはサボの傲慢で独りよがりな我儘だ。を傷つけたくないというのは本音だろうが、それによって自分も傷つきたくないのだ。
 彼女の父親との約束が"笑顔を守ること"なら、がどうしたいのかを上司としてしっかり聞いてあげるべきだ。そして、"兄"を卒業し、を一人の女性として好いていることを自身の心に認めさせてあげるべきだ。

はサボ君――キミの役に立ちたいだけなんだから」

 ガタンという鈍い音とともに椅子から立ち上がったサボは、うんともすんとも言わないまま扉のほうへ向かっていった。コアラの想いが届いたかどうかわからないが、出て行く直前聞こえるか聞こえないか程度の「ありがとうな」という言葉に温かさを感じたのできっと大丈夫だろうと、そう思えた。