雁字搦めにしたのは誰だったのか(2)

 ローとの別れの挨拶は案外あっけないものだった。の体調を気遣ってか、向こうから別れを言いに来てくれたのは意外だったが、それを口にしたら「口数の減らねェ女だな」と眉間にシワを寄せたいつもの無愛想な彼がそこにいた。このやり取りももうできないのだと思うと、少しだけ胸の奥がちくんと痛んだ。たぶんきっと兄との別れを惜しむような気持ちがどこかにあるのだろう。彼にも妹がいたらしいし、年下の女を扱うのがうまいからもなんとなく頼りにしていた部分があったのかもしれない。
 それに――彼の過去を聞いてしまったというのも大きい。誰にだって触れてほしくない過去の一つや二つ存在する。それを打ち明けてくれたというのは、少なくともその瞬間は心を開いてくれたはずなのだ。
 当たり前のようにくしゃくしゃと頭を撫でて去っていく背中に感謝を伝えれば、意地の悪い笑みで「おれよりきちんと伝えなきゃいけねェ奴がいるだろう」とからかわれた。最後の最後まで意地悪な人だ。でも、不思議と嫌な気がしないのは彼の過去に触れて、彼という人間を知っているからなのだと思う。

 こうして約三か月に及ぶトラファルガー・ローとの短い旅は終わり、の体も元通りとはいかないまでも日常生活に支障がない程度には快復した。
 目覚めてから五日後のことである。しかし、いまだにサボの姿はそこになかった。船内で彼の声は聞こえるのに、どうしてか面と向かうことは一度もないまま今に至る。仕事をしていることはわかっていたので、あえてから会いに行くようなこともしていない。ローには背中を押してもらったものの、やはり怖気づいてしまう。もし拒否されたら、見放されたら。そんな嫌な想像ばかりしてしまう。
 それに――どうして彼は会いに来てくれないのだろう。目覚めたとき、話したいことはたくさんあると言っていなかったか。それがどういうわけか、五日間も放置されている。
 もちろん参謀総長にはこうして停泊している間にもやることがあるのはわかっていた。仕事が忙しいのかもしれない。けど、それにしたって。コアラや別任務に出ていたために途中合流したハックたちでさえ、無事を確認しに来てくれたというのに。彼には少しの間もに割ける時間がないというのか。

「……って、さっきからこんなことばっかり考えてるなあ」
「また何か悩み事?」
「わっ……」

 がぼうっとしている間に、コアラが部屋に入ってきていたらしい。ノックしても反応がなかったから心配になって開けたのだという。寝ている可能性もあるのでは?という疑問もあるのはあるが、心配してくれた彼女に水を差すのも悪い気がしたのでやめておく。
 手元には温かい紅茶が二つ。目覚めてからというもの、コアラは休憩時間になるたび、こうして淹れてきてくれる。一人動けずベッドで過ごすしかないを気遣って話し相手になってくれているのだ。
 片方のカップをに渡すと、自分も近くの椅子に腰かけてコアラは小さく息を吐いた。

「どうせサボ君のことでしょう。最初に目覚めて以来、ずっと顔合わせてないもんね」

 はっきり言葉にされては落ち込んだ。おまけにコアラにも知られているのだと思うとばつが悪くて落ち着かない。彼女から何かを言われる前に、は自分から話を切り出した。

「……どうして来てくれないんだと思う? やっぱり呆れたのかな、今回のことで」
「ん〜心配する必要ないと思うよ。そのうち来るはずだから」
「え……」どういう意味、と聞こうとするより早くコアラが続けた。
も難しく考えすぎないで。前にも似たようなこと聞いたけど、今のの立ち位置にほかの女の子――というかサボ君とほかの女の子が仲間以上に親しくしてたらどう?」
「それは嫌だ、すごく」
「あはは。も即答なんだ」

 うん、そうだよね。
 なぜか一人で納得したコアラは微笑んで「つまりね」と、の手に自分のそれを重ねて続きを話し出した。

「シンプルに考えてみて。周りがどうとかサボ君がどうとか、そういうのは一切捨てるの。自分がどうしたいか、それを素直に言ったらいいと思う。だってはほかの誰でもない一人の人間だもん。自分の意思があって当たり前なんだから」
「……そうかな」
は、サボ君とここで一緒に生きていきたいんだよね?」
「うん。私、総長の役に立ちたいんだ」
「それ、そのままサボ君に伝えて」

 器用に片目を閉じてみせたコアラがに重ねていた手を離して、今度はぎゅっと握った。何かを希うように強く。はその勢いに圧倒されると同時に、ローと同じで彼女もまた自分を応援してくれている人であることを理解した。
 ――私って恵まれてるんだな。
 この人たちを裏切っちゃいけない。今度こそ、間違えちゃいけないんだ。
 ゆっくり頷いてコアラの目を見つめる。すると彼女が微笑んでもう一度「大丈夫」と言った。はたまにコアラが姉のように思えて仕方ない。そして自惚れでなければ、彼女もまた自分のことを妹のように思ってくれている。立場的にいえばは彼女の部下に値するが、気の合う友人として接してくれる距離感は心地よかった。時に厳しく、でも面倒見の良いコアラはサボにとってもにとっても、頼れる姉のような仲間だ。
 カップの中身はまだ残っていたはずだが、コアラが立ち上がって出ていこうとするので「もう行っちゃうの」思わずそう問いかけてしまった。つい口を出たの言葉にコアラが笑う。

「ん〜私ももう少し話したいけど、やっと来る気になったらしい人の気を削ぐのはいけないからまたあとでね」

 またもや意味がわからない言葉に首をかしげたとき、何かの気配を感じて扉のほうに視線を向けた。人は本当に驚くと言葉を失ってしまうものらしい。はただ茫然とその姿を見つめることしかできなかった。

「……どういう意味だよ」
「そのままの意味。ときちんと話して」
「わかってる」

 あまり納得いかない顔した参謀総長――サボが、扉に寄りかかっていた体を起こしてこちらに向かってくる。入れ違いにコアラが出ていくのでなんだか急に心細くなり、その背中を名残惜し気に見つめた。の願いも虚しくばたんと扉が閉まって部屋の中が静寂に包まれた。

「……」
「……」

 お互い沈黙したまま妙な緊張感が漂う。コアラはああ言っていたが、いざサボを前にするとの口は閉ざしてしまう。それだけ彼に見放されるというのは、にとって恐ろしいことだった。
 先ほどまでコアラが座っていた椅子に今度はサボがどっかり腰かけた。ちらっとさりげなく彼に視線を向ける。いつものシャツの襟もとにスカーフはなく、さらに袖からのぞく手が露わになっていた。思わずそこに目がいく。組んでいる指先がしきりに動いていて落ち着きがない。その様子からサボもそわそわしているらしいことがわかって違和感を覚える。が自分の失態を気にして居心地の悪さを感じるのは当たり前だが、彼がこんなふうにこちらの顔色を窺ったり、気にしたりする必要はどこにもないのに。
 それとも何か言いにくい――たとえば、に軍を辞めるよう通達しなければならないといったことがあるのだろうか。だから五日も会いに来なかったのだろうか。
 ああ、また。思考が悪い方向にいっている。考えないようにしてたのに。せっかくローが、コアラが……。

「体調はどうだ」

 沈黙が突然破られたのはサボの気遣う言葉だった。俯いていた顔をあげると、久しぶりに目線の合った彼が優しい表情でを見ていた。はたしてサボはこんな顔をする人だっただろうか。記憶をたどっても幼い頃の顔しか出てこなくて困惑する。もしかしたらちゃんと見ていなかっただけで、いつだって彼はを気遣ってくれていたのかもしれない。夢で見た、あのときのように。
 涙腺が緩くなるのを感じたは誤魔化すように視線を下げて首を縦に振る。

「だ、大丈夫ですっ……だいぶ落ち着いてきました」
「ん、そうか。よかった」

 泣くな。まだ何も伝えてないのに。
 ベッドの上で握った拳に力がこもる。サボの声音がどうしようもなく優しくて、泣きたくないのに勝手に涙がこぼれていく。ぽたり、ぽたり。視界が滲んでぼやける。顔が上げられない。言わなくちゃいけないことがあるのに、の口は言葉どころか嗚咽が漏れる。



 名前を呼ばれて、の肩は必要以上にびくりと震えた。何を言われるかわからなかったが、これだけはわかる。きっと五日間会わなかっただけの、サボが出した”答え”を聞かされるのだ。無意識には唇を噛んでいた。何を言われても受け止める覚悟をしなければ。
 でも総長……その前に私の話を聞いてくれませんか。