兄と妹、上司と部下、その次は…(1)

 コアラに言われて考えていた。
 を革命軍の一員として、肩を並べて生きていくということを。はじめは自分の後ろをついてくるだけだった彼女が、いつしか地に足をつけて自らその目的のために任務を遂行しようとしている。十年前の事件があってから、とにかく傷つけないようにとあの手この手で守ってきたつもりで、それがたとえ利己的だと言われようと関係なかった。が笑顔でいてくれるなら、それでいいと思っていた。
 しかし現実はどうだろう。彼女はすすんで危険な任務にも立ち向かおうとするし、サボの言うことに反発するようになり、結果的にあの日の記憶が蘇ってしまった。約十年かけて貫いてきたサボの行動が裏目に出たと言ってもいい。囲えば囲うほど、この手から零れ落ちていくとはなんて皮肉な話だろうか。
 に対する想いが自身の中でぐちゃぐちゃになったせいで、もはや一度動き出してしまった歯車を止める方法がわからなくなった。嫌われても、疎まれても。が自分の傍で生きてさえくれるなら。そう言い聞かせて、見ないふりを続けた。
 "少しはを信頼して背中を預けてみたら? 笑顔を守るのと、箱の中に閉じ込めておくのとは雲泥の差があるよ"
 コアラの言葉を反芻して、サボは勘案する。記憶が戻った以上、確かにこのままというわけにはいかないだろう。うやむやにしてこれまで考えないようにしてきた答えを出すときが来たのだ。
 ――答えって……もう決まってんだろ? お前はを自身の手から離れるような場所に置けるはずがない。
 誰かがサボの耳元で囁いたような気がした。否定しようとして、けれどできないことがわかっていて。情けないことだが事実だった。
 サボは、を手放せない。


*


「総長。私の話を聞いてくれませんか」

 真摯な、それでいて不安そうな双眸がサボを見つめていた。こちらが身構えてしまうほど、覚悟のいる内容であることが早々に伝わる真剣な顔だった。
 そういえばローがここを去っていく前、「あいつの意思を尊重してやれ。それが兄ってもんだ」と意味深な発言を残していったことを思い出す。が軍を辞めて奴についていくのかという考えもよぎったが、そういうことではなかった。といっても、奴が一人で出航して初めて本当に安堵したわけだが。それまでサボはひとり気を揉んで全然仕事が手につかなかったというのに、奴ときたら「焦ったか?」と捨て台詞を吐いていったのである。ルフィを助けたという事実がなかったら一言文句を言ってもよかった。
 こうしては一応革命軍に留まり、いま新しいステージへ踏み出そうとしている。何を言おうとしているのかは大体検討がついていた。コアラと事前に話したことも関係しているが、の普段の仕事ぶりを見ればよく考えなくともわかることだ。こう見えて正義感が強いし、何よりウォルトの娘という事実。幼い頃から父親と共に軍にいたのだから、同じ志を持つのは必然だった。
 彼女に視線を合わせて頷くと、なぜかサボに向かって頭を下げた。

「まずは、迷惑かけて本当にすみませんでした。エリスちゃんが城に入っていくのを止められなかったのは私の落ち度です。すみません」

 二回謝ったな……。そうか、それを気にしてたのか。と、つい一週間と少し前ことなのにもうずっと昔の出来事のような錯覚を起こした。目覚めるまでの間、彼女をどうするべきか悩んでいたこともあってやけに時間が目まぐるしく流れているような感覚だったのだ。

「そのことはもういいよ。終わったことを今さらグダグダ言っても仕方ねェ。お前が生きてくれてたからそれでいい」
「っ……」
「そんなことより話したいことってェのは、これからのことでいいのか?」
「はいっ……!」

 涙ぐんで返事をしたが訥々と語り始めたのは、意外にも目覚めるまでの間に見た夢の話だった。
 意識がない状態でも人は夢を見るのか科学的なことはわからないが、どうやら彼女は記憶を取り戻したことで過去の出来事を見たのだという。不思議なことにそれらすべてが自分との思い出だというから、サボはどう反応していいのか困った。潜在意識でが自分を求めていたというふうに捉えることもできるだろうが、事はそんな単純ではないだろう。逆に言えば、サボという存在が彼女を縛りつけているとも考えられる。
 しかし、そう語るの口調は慈愛を含んだような穏やかなそれだった。耳にするりと溶けていく言葉の数々にサボはやはり返事に窮して、「うん」とか「そうか」といった相槌しか打てなかった。

「私、気づかなかったんです。総長が本当は私を必死で守ろうとしてくれていたことに。あのときの言葉を、忘れてしまったせいで……」

 目を伏せて悲しそうに言ったの手が震えていることに気づいて、サボは躊躇いがちにその小さな手を包んだ。ああ、握ってみて改めて思う。彼女はこんなにも小さいのに、気丈に振る舞おうといま必死に自身の心と闘っている。見放されるのではないかという恐怖と、この先の進退を口にすることへの不安と。おれがお前を見放すなんて、そんなことするはずがないというのに。
 とはいえ、サボもまたが語った迷子になったときのことを今の今まで忘れていた。
 彼女とともに任務へ出ることはウォルトの下についている関係で自然な流れとなり、はじめの頃は見て学ぶことが多かった。あのときもまだ、大人たちの後ろをくっついていただけの頃だ。
 の歩調に合わせて歩いていたら仲間とはぐれてしまい、盗賊と遭遇して応戦したことはサボの記憶の片隅に残っている。襲ってきた盗賊から自分を庇おうと彼女が壁になり、それを咎めたら泣かれたのだ。初めてに対して怒りの感情をぶつけたこともあって、きっと驚いたのだろう。泣かせるつもりはなかったが、思った以上にサボは激昂したらしい。
 そして同時に、守られるんじゃなくて守りたいと告げたことも思い出した。初めてと不可抗力だが二人きりのときに敵に遭遇したことで、自分以外の存在をこの手で守らなければならないという使命感に似た感覚をサボの中に呼び起こした。そうして気づく。彼女のことが自分の中で思った以上に大切であるのだと。妹のように思っていたから当然と言えば当然なのだが、この頃はその感覚に名前をつけることなくただ漠然と自分より弱き者に対する庇護欲なのだと思っていた。
 それがいつしか一人の女性として彼女を大切に想い始めていることに気づいてサボは戦慄する。事件のこと、自身の立場のこと、ウォルトとの約束のこと。そうしたしがらみがサボを余計に困らせていった。いつだってシンプルな答えが心の真ん中にあったというのに。

「いいよ。おれだってお前に酷いこと散々言ってきたし、任務だって裏で手を回したこともある。危険から遠ざけるためだって言い聞かせて、本当は自分が傷つきたくなかっただけだ。情けねェと思うだろ?」
「そんなこと……」
「あるんだよ。を失うのが怖くていろんなモンから遠ざけてた。それがお前を傷つけるってわかってても――」
「それくらい非情にならないといけなかったんですよね。だからこそ何も知らずに今日まで生きてきたことがすごく申し訳なくて……」

 サボの言葉を遮ってが自分を肯定してくれる。彼女がそんなふうに自分を責める必要などないのに、さっきから忘れていたことに対する謝罪ばかりを口にしていた。
 人間はあまりにも悲惨な体験をすると、その記憶を封じ込めようとして記憶障害が起こるという。解離性健忘症と呼ばれるそれは、自身の辛い体験にまつわる記憶が失われる。の場合、特定期間・出来事のうち一部の内容を忘れてしまったわけだが、事件に関することはもちろんサボと過ごした記憶も抜け落ちている箇所があった。
 その一つが、いま語ったと仲良くなって数か月後の迷子になったときのことである。
 サボが口にした言葉以上に、どうやら彼女の中では何か大きな意味を持っているようで、後ろ向きな言葉から一転して「でも」と続けた。

「私は……ここにいたいです」
「……」
「総長のそばで戦いたいっ……あなたの役に立ちたいですっ……!」
「……っ」
「だからっ……だから、その……辞めろなんて言わないで、くださっ――」

 言い終える前にサボはを掻き抱いていた。目尻に涙を溜めて切羽詰まったように話す彼女にたまらなくなって、思わず体が動いていた。
 小さくて、少しでも力を入れたら壊れてしまいそうな彼女の精一杯の懇願にサボは心臓を締め付けられながら、慎重に返す言葉を吟味する。ここで目を背けたら、もう二度と本当のことは言えない気がするから。
 がサボの役に立ちたいなら、サボはを――

「いろいろ悩ませたよな、ごめん……お前がおれと――おれ達と戦いてェって言うんならもう止めねェよ。けど、これだけは忘れないでくれ」

 抱き寄せていた体を少し離して、溜まった涙を拭ってやりながら彼女の瞳に自分を映す。きちんと伝わるように。

「お前が危ないときはおれが必ず守る。だから、無茶だけはしてくれるな」
「っ……ん、はいっ」

 鼻をすすりながら絞り出した返事に、サボはやっと安堵の笑みをこぼした。それを見たの瞳に再び涙がみるみるうちに溜まっていく。表面張力で保たれていたそれは、しばらくすると決壊してぽたぽたとサボの手を濡らしていった。
 その姿にどうしようもなくいとおしさを感じて「泣くなよ」と、サボもまた涙を堪えるように彼女の頭をそっと撫でた。